「トミーカイラZZ」EV版を作った男の真実 ゼロからの無謀な挑戦を成し遂げた
――エンジニアとしてのキャリアを確実に積まれていきます。
藤墳氏:ところが、というか実はこの時も、まだ私の心の中には「バイクをつくりたい」という気持ちが大部分を占めていたんです。エンジニアなら誰もが憧れる水野さんに師事でき、どこも相手にしてくれなかった自分を、可能性だけで雇ってくれた、申し分のない会社と職場環境でしたが、私がやりたかったのはあくまでバイクづくり……。
30歳を目前にして、結婚も控えていて、考えることはたくさんありましたが、自分の気持ちを無視したまま生きていくことは、やはりできませんでした。何より、そんな気持ちを抱えたまま働くことは、エンジニアとしても、職場やお客さんに対して申し訳ない。悩んだ末、自分の夢であった「バイク」を捨てきれず、再度転職を決心し、念願のバイクメーカー川崎重工に転職しました。28歳のときです。
夢、燃え尽きた先に見えたもの
――ようやく、念願の「バイク」に辿り着きました。
藤墳氏:カワサキ時代は、アメリカンバイクの設計部隊に配属され、エンジン以外全部、車体(フレーム)設計を担当していました。意外だったのは、日産時代とはまた少し違ったカワサキの企業風土でした。「バルカン2000」という、アメリカ市場向けに、同じVツインエンジンのハーレーを超える「世界一のバイクをつくるぞ」というアツい目標を掲げていた一方で、極めてシステム化された、大企業としての開発現場がそこにあったんです。
私はそこで、システマチックな現場のメリットとデメリットを感じ、中途の平社員の身分など無視して、ただただバイク設計のためになると信じて、勉強会やアイディア出しなどトップと現場を繋げる会話の場を独自に設けていました。若手の分際で、同社の生産システムを確立された役員も呼んで勉強会を開いたり(これは後で直属の上司に怒られましたが。笑)、若手同士でアイディア出しをやったりと、勝手ばかりやらせてもらっていましたね。
そんな中「バルカン2000」が完成して、上司から実際どうなったか見てこいと言われアメリカにも行かせてもらいました。念願だったバイクの設計を仕事にして、さらに自分のつくったバイクでアメリカ横断。自分たちの商品の長所短所を直接感じるという、ものづくりの醍醐味を味わうことができ、私のバイクの夢は、この時点で叶ってしまったんです。
――「夢」が叶ってしまった後に見えたのは……。
藤墳氏:ずっと追い求めていた夢が、いざ叶った瞬間、自分のエンジニアとしてのこれから進むべき道を問われたような感じでした。やりたいことは全部できた。達成感もあった。でも、やはりまだ満足できなかった。そうしてまた、新たな自分の場所を求めた結果、次に私が身を置くことになったのは、世界的自動車メーカー「トヨタ」でした。