「トミーカイラZZ」EV版を作った男の真実 ゼロからの無謀な挑戦を成し遂げた

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――「好き」を諦めずに、挑戦することを選ばれました。

藤墳氏:実際、第二新卒の転職は、新卒で就職するよりもさらに厳しいものでした。面接まで漕ぎ着けても、「君面白いけど、結局何ができるの」と言われてしまうんですね。意欲や想いだけではどうにもならないことを痛感しました。それでも諦めきれず、直接何がダメなのかを面接の方に電話して聞いたら、電話口からは「新卒と違って、キャリア採用は“即戦力”を求めています」と、当然のひと言。まずはバイクメーカーに限らず、自動車や部品メーカーなど、乗り物に関わる設計経験を積まなければならない。「経験を積むための職場に、経験が必要とされる」ことにジレンマを感じていましたが、後々の逆境に比べると、この頃はまだまだ易しいものでした。

“ミスターGTR”にしごかれた日産時代

車の開発はまず、「企画=想い」から始まる

藤墳氏:いくつもの会社を受けては落ちる中で、突如「よくわからん人間だが、面白いからうちに来い」と、私を設計の世界に引っ張り上げてくれたのが、あの「日産自動車」でした。私のメカニック、エンジニアリングに対する想いだけを買ってくれた面接官は、車体設計の担当者でもあり、自分は運よく車両設計部に配属されることになったんです。それまで箸にも棒にもかからなかった身としては、想像もしなかった場所で設計経験が積めることに、バイクでなくとも興奮しましたね。

そんな車両設計部に集まった同年代の中途採用者は、みんな「バカ」がつくほどのメカ好き(笑)。そして、そうしたアツい人間たちよりもさらにアツかったのが、業界のエンジニアたちが羨望の眼差しを注いでいた、日産のチーフエンジニア、“ミスターGTR”こと、水野和敏さんでした。

車の開発はまず、「どんな車をつくり、世の中に届けたいか」という「企画=想い」から始まります。それに基づいて各設計部隊が、設計構想を提出し、企画に沿って、デザインと設計が両軸となって、摺り合わせていくんです。日産では、その過程において、DR(デザインレビュー)を提出して、どういう想いで設計をしたのか、その思想を問われる場があります。エンジニア側の設計に対する想いが弱かったりブレていたりすれば、すぐに水野さんから激しい檄が飛んできました。

「強い信念を持って設計しろ!」と、よくシゴかれました。けれど、決して頭ごなしに否定されるわけではなく、その設計に込められた我々エンジニアの信念が問われていたんです。何度も説明を重ね、食い下がってようやく設計OKをもらうこともありました。現場ではエンジニアたちが集まって、日夜奮闘していましたが、肌身で「設計」そのものの魅力と厳しさを感じさせてもらいましたね。日産時代には「S15シルビア」などを担当しましたが、これが私の設計、エンジニアとしての原点でした。

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