地雷原を肥沃な畑に--死も覚悟する男の夢
山梨日立建機の主な業容は、建設機械の販売・修理で、地雷とは何のゆかりもない。にもかかわらず、なぜ雨宮が地雷除去機の開発を思い立ったのか。話は94年にさかのぼる。山梨日立建機は東南アジアへの建設機械の輸出を手掛けており、雨宮は商談のためにカンボジアの首都プノンペンを訪れた。滞在中に立ち寄った市場で、雨宮は違和感のある光景を目にする。至る所に足のない人がいるのである。
不思議に思いながら歩いていると、物ごいをする老婆と幼い少女に出会った。その老婆もまた、右足のひざから下を失っていた。雨宮は老婆に疑問をぶつけた。「なぜ、足がないんですか」。すると、老婆は「地雷の被害に遭ったんですよ」と打ち明けた。
カンボジアでは、70年にロン・ノル将軍によるクーデターを発端に、ポル・ポト政権の樹立と崩壊など内戦が続いた。そのときに大量に使用されたのが地雷だ。91年に和平が成立するまでに600万個が埋められたといわれている。内戦が終わった今でも多くの人々が被害に遭っているのだ。しかも、内戦で疲弊したカンボジア国民の多くが貧困に苦しんでいる。中には住むところがなく、地雷原の中で暮らしている家庭もあるため、被害者がなかなか減らないのが現状だ。
ふびんに思って1ドル札を手渡した雨宮に老婆は懇願した。「私たちはカンボジアを、国民がきちんと自立した平和な国にしたいと思っています。でも、地雷があっては、いっこうによくなりません。あなたは日本人ですよね。ぜひ、この国から地雷をなくしてください。私たちの国を助けてください」。その言葉を聞いた雨宮は「何とかしなければならない」という思いが、沸き上がってきたという。
カンボジアから帰国した雨宮は、95年から地雷除去機の開発に取りかかる。とはいえ、当時の雨宮には地雷に関する知識はまったくない。そこで雨宮は、何度もカンボジアへ足を運んだ。地雷の種類や爆破能力、地雷除去機にはどういった機能が必要なのか、実際の除去作業の現場を見て学んだのである。朝、おにぎりを握って現場へ出かけ、夜は寝食を共にし、親交を深めながら意見を聴いて回った。
その結果として生まれたのが、油圧ショベル型の地雷除去機だ。油圧ショベルは人間の腕のような動きができるため、人がする作業を機械化するには最適だった。しかも、世界的に普及している製品で、誰でも扱いやすいと判断したのである。
だが、開発には苦労した。特に困難だったのはカッターの刃だ。地雷に直接触れるカッターには、爆発時の1000度にまで達する温度や衝撃に対する耐久性、地面の岩盤に対する対摩耗性や切削性が必要になる。素材にただの鉄を使ってしまうと、数回使っただけで、刃が曲がったり、欠けたりして使い物にならなくなるのだ。
そこで雨宮は、カッターの開発を抜本的に見直した。カッターを製造するメーカーを巻き込んで、素材となる金属の配合の研究から始めたのだ。そして、思いついたアイデアは設計図を引き、試作品を作成。何度も何度もテストを繰り返し、完成度を高めていったのである。