「悲劇の投手、沢村栄治」の哀しすぎる真実 戦争に翻弄された「160キロ、伝説の剛速球」
はい。同じ巨人で沢村とバッテリーを組んでいた吉原正喜、闘将の異名で沢村と名勝負を繰り広げた強打者景浦將(大阪)、さらに中河美芳(イーグルス)、西村幸生(大阪)、石丸進一(名古屋)ら、多くの名プレーヤーが戦場に赴き、帰らぬ人となりました。
現在、東京ドーム(東京都文京区)の一画に、戦没したプロ野球選手73人の名前を刻んだ「鎮魂の碑」が建てられています。
「魂」を受け継ぐ者たち
闘志あふれるプレースタイルで、チームを鼓舞し観衆を沸かせた捕手の吉原正喜は、1944年10月10日、ビルマ(ミャンマー)で戦死しました。
吉原の背番号「27」はその後、森祇晶、大矢明彦、伊東勤、古田敦也、谷繁元信といった歴代の名捕手たちによって、いまに受け継がれています。
石丸進一投手は、神風特別攻撃隊に志願し、1945年5月11日、鹿児島県の鹿屋基地で出撃命令を受けました。
出撃を前に、彼が最後に行ったのはキャッチボールでした。戦友に向けてストライクを10球決めると、爆装した零戦に笑顔で乗り込み、沖縄方面で消息を絶ちました。
戦後、巨人は沢村栄治の功績を称え、彼の背番号「14」は、日本プロ野球史上初めての永久欠番に指定されています。
現在、全球団を通しシーズンで最も活躍した先発投手に贈られる「沢村栄治賞(沢村賞)」は、投手最高の栄誉ある賞であり、一流の証しとして各球団のエースたちがその奪取を狙い、毎シーズンしのぎを削っています。
終戦から72年、こうした「日本史の悲劇」を学び、野球をはじめ誰もがスポーツを心おきなく楽しめる「平和」を、あらためてかみしめる機会にしてください。
「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」――。本記事を、沢村の残したこの言葉で締めくくりたいと思います。
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