「悲劇の投手、沢村栄治」の哀しすぎる真実 戦争に翻弄された「160キロ、伝説の剛速球」
難しかったと思います。
彼はプロ野球選手であると同時に、徴兵検査を合格し、訓練と実戦経験を積んだ、27歳の若く優秀な陸軍予備役兵でもありました。
戦況も悪化をたどり、兵役を猶予されていた大学生らの徴兵も始まり、総力戦に移行していく状況下では、「例外」は認めらなかったでしょう。
出征は「名誉」であり、「国民の義務」だった
ありませんでした。
もちろん、多くの人が同情を抱いたでしょう。しかし戦争中のことでもあり、当時は出征は「名誉」とされていて、「国民の義務」でもありました。
知らなかったと思います。シーデビルの「ミ29船団」攻撃は、哨戒活動中のものでした。
事前に得た情報をもとに特定の目標を狙った行動ではなく、沢村の乗船はおろか、相手の船名すらわかっていなかったはずです。
記録が残っておらず、詳細は不明です。
1934(昭和9)年、沢村が来日したメジャーリーガーを抑えたニュースは全米に報道され、その後のアメリカ遠征では沢村は行く先々でサイン攻めにあう人気でした。
しかし、彼の戦死はそれから10年が経過しており、日米が敵同士となった戦争も依然、継続中でしたので、それが報じられた可能性は低いでしょう。
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