「悲劇の投手、沢村栄治」の哀しすぎる真実 戦争に翻弄された「160キロ、伝説の剛速球」
京都商業学校時代は、甲子園に3度出場し、1試合23奪三振を記録しています。
1935年には「東京ジャイアンツ(大日本東京野球倶楽部)」のアメリカ遠征に投手として参加し、マイナーリーグ相手に21勝(8敗)、翌1936年の同遠征でも完封試合を含む11勝(11敗)をあげました。
「日本人初のメジャーリーガー」に?
1936年秋から始まったプロ野球リーグでは、日本プロ野球史上初のノーヒットノーランのほか、リーグ最多勝利(13勝)をあげるなど、チームの優勝に貢献しました。
プロ2年目となる1937年の春シーズン(当時は春、秋の2シーズン制)ではリーグ最多の24勝、防御率0.81という驚異の大活躍で、プロ野球史上初となる最高殊勲選手(MVP)に選出されました。
推定球速は「160.4キロ」です。
これは現存する彼のキャッチボール映像からはじきだされた球速で、実際のところは不明ですが、この速球と「懸河(けんが)のドロップ」「三段落ち」と呼ばれた落差の激しいカーブが彼の武器でした。
入団時の契約は支度金300円、月給120円でした。
当時の国家公務員または民間(大卒)の初任給が75円でしたので、なかなかの待遇です。さらに、MVP獲得時の賞金が500円、最盛期の月給は球界最高の270円だったといわれています。
本当です。日米野球の試合後、アメリカチームのコニー・マック監督は日本側の関係者に「サワムラをアメリカに連れて帰りたい」と打診しました。このときは沢村にその意思がなく話は立ち消えになります。
しかしその後のアメリカ遠征時のある日、沢村は中年男性からサインを求められ、気軽に応じたところ、それが実はカージナルス(パイレーツとも)との選手契約書で、実は男性は球団のスカウトだったという「事件」もありました(もちろん無効)。
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