「悲劇の投手、沢村栄治」の哀しすぎる真実 戦争に翻弄された「160キロ、伝説の剛速球」
延べ5年在籍し、105試合に登板。63勝22敗、防御率1.74です。
理由はただひとつ、「戦争」です。
プロ野球が開幕して2年後、日中戦争の拡大により沢村は徴兵され、丸2年間(1938~1940年)の戦場生活を余儀なくされました。
歩兵として数々の戦闘にも加わり、左手のひらを機関銃で撃ち抜かれる重傷を負ったほか、足の負傷やマラリアの感染など体を蝕み、復員後は以前の制球力を失いました。
さらに、復帰翌年に召集によってフィリピンに派兵され(1941~1943年)、1944年には再び召集されて「3度目の軍隊生活」を送るなど、実質的なプロ稼動期間は数年間でした。
手榴弾を80メートル遠投し続け、肩を壊した
手榴弾の投げすぎが、投手寿命を縮めました。
野球のボールが「150グラム弱」であるのに対し、当時の日本軍が主に使用していた手榴弾(九一式、九七式)は「約500グラム」と非常に重く、これを訓練や実際の戦闘で投げ続けたため、肩を壊しました。
軍隊内で行われた「連隊対抗手榴弾投げ」で優勝したり、帰還後、公式戦の試合前に行われたアトラクションでは「80メートル近い手榴弾遠投(一般兵士の平均が30メートル程度)を披露した」というエピソードもあります。
彼を乗せた輸送船が、戦地に向かう途中で雷撃されました。
1944(昭和19)年10月、予備役から再度の召集を受けた沢村は、京都の伏見連隊に入営し、まもなくフィリピン防衛戦に向けて部隊の派遣が行われました。
12月2日未明、アメリカの潜水艦「シーデビル」は、屋久島沖西方150キロの東シナ海で、フィリピンに向かう日本軍の「ミ29船団」を発見。午前4時半、輸送船「はわい丸」(9467トン)と「安芸川丸」(6895トン)を魚雷攻撃により撃沈しました。
沢村はこのどちらかに乗船していたと見られ、27年の短い生涯を閉じました。
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