「騎士団長殺し」に見える村上春樹のパターン この話型は彼に取りついたものだ

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その前の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』もそうでしたが、今度の物語も、きびしく自己を律する男が出てきます。彼がおのれの欲望を過剰に抑制したせいで、彼の中に出自を持つ欲望が行き場を失って、浮遊し始める。引き受け手を失った欲望は、いわば親から「お前は私の子じゃない」と拒絶された子どものようなものです。誰にも引き受けてもらえない欲望は、やがて異形のもの、邪悪なものに化身して、現実世界に侵入してくる。

それは『源氏物語』で、六条御息所の妬心が生霊となって、源氏の愛する女性たちに取り憑くのと構造的には同じです。六条御息所はあまりに自己抑制が効きすぎて、嫉妬心のような筋目の悪い感情を自分が抱いていることそれ自体を拒絶します。行き場を失った嫉妬は生霊となってさまよい出て、葵の上に取り憑いて、呪殺してしまう。過剰な自己規律が邪悪なものを生み出すということは古代から知られている人類学的事実なのです。

今回のアルターエゴである免色さんは、異常なきれい好きで、すべてを自分のコントロール下に置きたいと願っており、それゆえ他者と暮らすことができません。彼が引き受けることを拒否した「汚れ」や「緩み」や「怠惰」や「弱さ」はすべて外に掃き出されてしまう。でも、塵一つ落ちていない家を実現するためには、そこの穢れをすべて集めた「ごみ溜め」をどこかに作らなければならない。それと同じです。家が隅々まで単一の、非妥協的な美意識で整序されていれば、そこから排除され、「ゴミ」扱いされるものは増えて、それだけ醜悪で凶悪なものになる。

もうひとつの主題は「弱い父親」

もう一つ、『騎士団長殺し』でも「父親の不能」が主題となっています。父親は言葉にすることのできないある種の空虚、あるいは記憶の欠如を抱えており、子どもは父親からその「欠如」や「空虚」を受け継ぐ。これは『海辺のカフカ』『1Q84』と続くこのところの村上作品の主題の一つです。『騎士団長殺し』もこの「父親の不能」は物語の鍵です。

「弱い父親」は世界に災厄をもたらす。父親の人類学的な本務は、この混濁してアモルファスな世界について一つの筋目の通った物語を語るということです。非分節的な世界に「記号的な筋目を通す」というのが父に課せられた事業なので。でも、「弱い父親」はその仕事を果たすことができない。

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