「騎士団長殺し」に見える村上春樹のパターン この話型は彼に取りついたものだ

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もちろん父親が語る物語、彼が架けるコスモロジカルな「天蓋」も所詮は虚構に過ぎないのですけれど、子どもたちは幼く、弱い間は、そのような「天蓋」によって守られる必要がある。それがしっかり建造されていれば、子どもたちは幼いときには「天蓋」に守られて育ち、十分に成長した後にはそこから旅立つという順当な成熟プロセスをたどることができます。けれども、「天蓋」で守られていない子どもにはそれが許されない。幼くして自力で生きることを強いられた子どもはやがて長じてクールでタフで自己規律のきびしい人間になります。誰にも頼らず、誰の介入も受け付けず、自分ひとりの、整然とした狭い小さな世界に自足しようとする。『1Q84』の天吾も青豆もタマルも、多崎つくるも、多くの作品における「僕」もそうです。だから、女たちは「僕」を捨てて(というよりは捨てられて)立ち去る。

「弱い親」は次世代にクールでタフで、きびしくおのれを律する無口な子どもを生み出し、彼らが過剰な自己抑制ゆえに引き受けることを拒否した「弱さ」や「欲望」から「邪悪なもの」が生まれて、世界に災厄をなす。そういう二世代にわたる「因果話」が村上作品の一つの骨格をなしている。

村上春樹の「父」はこういう父権的な父とは違う

これまでは一神教の神のように世界に君臨し、世界を睥睨し、万象をコントロールしようとする「父」こそが諸悪の根源であるというのが、父権制批判の基本的なロジックでした。でも、村上春樹の「父」はこういう父権的な父とは違うものなんです。あまりに弱く、疲れ、傷つき、子どもたちのために「天蓋」を作ることができなかった父親、子どもたちをその羽の下に包み込んで守ることができなかった父親がもたらす災厄がむしろここでは問題になっている。

これまで「よいこと」と思われていた人間的資質から「邪悪なもの」が生まれ、これまで「悪いこと」と思われていたことが世の中を支えていた……そういうことってよくあることなんです。世界は二項対立的に分節されている。善と悪、昼と夜、戦争と平和、男と女……面倒だからと言って、そのどちらか一方に片付けるわけにはゆかない。二項が拮抗するその「あわい」にしか人間が住める場所はない。ささやかだけれど確実な幸せが期待できる場所、人間が生きるに値する場所、それを求めてゆくというのが村上春樹の変わらない作家的目標じゃないかと僕は思います。

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