裕紀が就職したのは、全国に支社を持つ誰もが知る大企業だ。静岡の高校を卒業して上京し、仕事や都会の生活に戸惑う裕紀に、彼女はいつも優しくいろいろなことを教えてくれた。
「地味なタイプの人だったけれど、都会育ちの洗練された雰囲気があって、気がついたらその人を好きになっていました。だけど、手が届かない気がして、自分の気持ちを伝えることができなかった」
そのあこがれのマドンナと個人的にメールのやりとりができるようになったのは、27歳の時だ。部の飲み会の帰り道にアドレスを交換した。
メールをやり取りするようになると、仕事や彼氏の悩みを裕紀に打ち明けるようになった。仕事をてきぱきこなす頼れる先輩だと思っていた彼女は、実は弱くて繊細で、そんな自分を隠そうと必死で頑張っている人だった。その危うさがまた魅力的だった。
そして29歳の時、2人で飲みに行った帰り道に、気持ちを抑えきれずに一線を越えてしまった。
「自分にとっては初めての女の人。それはもう夢中になりましたよ。彼氏から奪い取りたいと思った。だけどその頃彼女はうつ病で病院に通院していて、精神的に不安定な状態だったから、自分があんまり強引な行動は起こさないほうがいいかなって。ただ1度だけ“病気も踏まえて僕が全部引き受けるから、結婚しない?”って聞いたことがあったんです。でも彼女は、うんと言わなかった」
「しばらく恋愛はいい」
ある夜、遅い時間に家のインターホンが鳴った。ドアを開けると、そこに彼女が立っていた。これまで見たこともない派手な服を着て、濃いメークをしていた。連絡もなしに尋ねてくることがなかったのでびっくりしたが、「どうしたの? どこかに行ってきたの? まあ、上がりなよ」と中に招き入れようとした。すると、その手を振り切って彼女が言った。
「これを返しにきたの」
手渡してきたのは、裕紀が彼女に渡していた合鍵だった。
「さようなら」
合鍵を返され、2番目のポジションの自分と彼女を唯一つなげていた糸がプチンと切られた気がした。なんの前触れもなく別れを告げにきた彼女を追うこともできず、ただ茫然と帰っていく後ろ姿を見送った。
翌日、彼女は会社に来なかった。昼休みに部長から、別室に呼び出された。
「佐藤さんが昨夜、ビルから飛び降り自殺をしたらしい。遺書にキミに感謝する言葉がつづられていたと、ご家族から連絡があったよ」
それを聞いたとたん、頭の中が真っ白になり、涙が止めどもなくあふれ出した。部長の前なのに泣いて、泣いて、泣きじゃくった。
この話をしてくれた裕紀は、私に言った。「やるせなかったですよ。なんで守ってあげられなかったのかなって。それからしばらくは、恋愛をしたくなくなった」。
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