70億人が共有する「政治的思想」は存在しない なぜ正義は流行らなくなったのか
国民国家というのはアイデアとしてはよくできたものでした。だから、ウェストファリア条約から今まで350年も持ちこたえた。でも、国民国家というのは、あくまでいくつかの歴史的条件が揃ったせいで成立した政治的擬制に過ぎません。条件が変われば、機能しなくなり、瓦解することもある。その場合は、新しい環境に適応した別の政治単位が登場してくることになる。これは歴史の必然です。
国民国家ができる前にヨーロッパの支配者だったカール五世は神聖ローマ帝国の皇帝であり、スペイン国王であり、フランドルで生まれ、パリで暮らしました。彼の「国籍」がどこで、どの「国」に帰属していたのかを論じるのは意味のないことです。それと同じように、「国籍を問う」というふるまいそのものが無意味になる時代がいずれ来ます。もう来つつある。
すでに地上のいくつかの地域では、内戦や難民化によって「国民国家というアイデア」そのものが現実性を失っています。国連や有力な国民国家はその難問を「国民国家の再構築」によって解決しようとしていますけれど、僕は無理じゃないかと思っています。今起きている問題はそれらの係争地における国民国家の制度設計そのものの欠陥によって起きているからです。ですから、制度そのものを改変する以外に解決の手立てがない。
共苦の涙が『資本論』を書かせた
僕たちの時代には、世界の70億人が共有すべき「政治的理想」がもう存在しません。かつて東西冷戦の時代でしたら、共産主義と自由主義のどちらが人類の「理想」であるかを競っていた。ソ連の崩壊によって国際共産主義運動は終わりましたが、そのあとはもう誰も人類の理想について語らなくなった。
「人権」や「政治的正しさ」は今も主張されていますが、それがどのような運動や組織を通じて実現するのかについて統一見解があるわけではありません。そして、「人権」や「政治的正しさ」はしばしば過剰に攻撃的で、非寛容な仕方で主張されてきました。それが人々に強いストレスを与えることになった。「正義」もあまりに厳密に適用されると、むしろ社会を生きにくいものにする。堅苦しく抑圧的な正義よりも、本音剥き出しの邪悪さや欲望の方を「人間らしく」感じるということが起きる。
アメリカが「世界の警察官」であることをやめたいと言い出したのは、「警察官」であることの軍事的・財政的コストに耐えられなくなったということ以上に「きれいごと」を言い続けることにうんざりしたという国民感情があったからだと思います。トランプが出てきたのはそのトレンドからです。