風化させてはならない野村證券の「功」と「罪」 バブル最前線を知る2人が語る現代への警鐘
「銀行何するものぞ」という大田淵の思い
永野:僕が大田淵こと田淵節也氏を好きだったのは、株屋の世界を180%理解しつつ、直接金融に踏み込んで、「銀行何するものぞ」という仕事をしたから。40年間証券業界を取材してきて証券市場に対する熱い思いは変わりません。横尾さんの著書には時々熱い思いを感じますが、時々評論家みたいなところもあって、そこのところを今日はじっくりと話してみたい。
横尾:私が1978年に野村證券に入社したときはまさに株屋でした。4回生(4年生)の大学祭で他大学の女子学生が手伝いに来てくれたときに、「どこ就職決まったんですか?」と聞かれて順番に答えた際、皆さんが感心されましたが、私が野村證券と言った瞬間に会話が止まりました。
永野:ちょっとショックですよね。京都大学では僕より5年下なのかな。
横尾:そうですね。銀行の内定もありましたが、違和感があり、野村證券に飛び込みで面接に行ったら、そのまま1時間で内定に。「いいんですか?」と聞くと「都銀に決まっていた人で、うちに来た人はいませんから内定です」と。
永野:野村には1974年くらいまで東大・京大卒だと自動で海外留学付きで経営企画などに入るコースがありましたね。最初の10年間、地雷を踏むような、リスクの大きい個人営業に放り込んで鍛えるのが野村式だったのですが、それを実質やらないで済むコースがあって、東大・京大組が行きたいといえば内定が出ていた。1975年入社から特殊採用をやめましたが、横尾さんはその変革期の初期の内定者でもある。
横尾:支店営業は単にノルマがきついのではなく、必ずお客さんが損するものを売るので、金額よりも精神的にきつい。大量に買ってくださる方はものすごくいいお客様ですが、買っていただいた瞬間に2割下がっている。「そんな損する商品は全部俺のところに置いていけ」という豪の人もいらっしゃいましたが。夜中の12時に駅前から新規の知らないお宅のベルを押して、「投信買ってください」というスタイル。そのうち道端で吐くんです。何も食べていないのと、いたたまれない気持ちからです。
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