そこで、哲学科の大学院(修士課程)に再入学することを申し入れると、博士課程には進まないという条件で許され、1年後にカントに関する修士論文を書いて、そこを追い出されました。ちょうど30歳になっていました。つまり、大学に12年間いたことになります。
33歳、ウィーンで「惑える青春」が終わった
その後、新聞広告を頼りに複数の進学予備校や塾の教師に落ち着きましたが、どこでも著しく人気がなく、もう耐えがたい、死ぬ前に本場ヨーロッパで哲学をしよう、いや、このまま望みかなわずヨーロッパで死に果ててもいい、と思い立ち、33歳の9月にたったひとりでウィーンに向けて飛び立った次第です。ウィーンでの壮絶なほどの苦労話はカットしましょう。実際、こうした悲壮の決意をもってウィーンに向かった飛行機の中で、私の「惑える青春」は終わったのですから。
ウィーン滞在4年でドクター論文を完成し、帰国後すぐに東大の助手という職まで手に入れ、私は(普通の人より15年遅れで)「社会人」になりました。大学入学から20年が経っていました。人生の船出の時期にこれほど迷いますと、その後の人生で迷ったことがあっても(実際何度もあったのです)、あのときよりはましだと思い、かなり無謀な選択に身を委ね、いつも落下寸前で救われるようにして、66歳まで(もうじき67歳)どうにか「好きなことだけ」をして生きてきた次第です。
さて、長々と波乱に満ちた、いや恥辱に満ちた人生を語ってきましたが、こういう輩であるからこそ清濁併せのんで人格円満、さぞや他人に優しいかというと、全然そうではなく、他人の「悩み」や「迷い」にはめっぽう手厳しい。もっと悩め、もっと迷え、と怒鳴りたくなる。まあ、その気持ちはなるべく抑えても、ただ「ほんとうのこと」(私がほんとうにそう思っていること)のみを語ろうと思います。
人生相談には「慰める」あるいは「勇気を与える」という機能もあるようですが、見も知らずのもうじき死ぬような爺さんから一瞬だけ慰められて、あるいは勇気を与えられて何になりましょう?
人生相談に何らかの意味があるとしたら、厳しい言葉を吐く当人(すなわち私)を憎みつつ――いやすっかり忘れて――、その言葉だけを勝手に解釈して、自分の人生に役立てることだとシンから思います。
(撮影:風間 仁一郎)
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