「忠臣蔵」の美談は、ほとんど大ウソだった! 赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?
Q11. では、なぜ赤穂義士は切腹を命じられたのですか?
理由は簡単で、彼らの行為が「あだ討ち」と認められなかったからです。
事件後、幕府では事後処理の対応に追われ、彼らの処分が検討されました。当初は、幕府上層部においても彼らを好意的に見る人も少なからずいました。
しかし、それまでの数あるあだ討ちは「父母兄弟を中心とした親族のため」が大半で、今回のような「主君のため」というのは初めてのケースでした。
そのため、「あだ討ちとして認められるか」が議論され、結論に至らぬまま約2カ月半が過ぎた後、最終的には将軍様のおひざ元である江戸城下を「徒党」を組んで押し込んだという「罪」で、大石らは切腹となったのです。
「本当の歴史」には「本当の人間ドラマ」がある
浅野長矩と吉良義央の間にどのようなトラブルがあったのか、その内容はいまなお不明です。
物語では「浅野家の悲劇」ばかりが強調されますが、刃傷事件のあと無罪放免となった吉良家にも、ほどなく暗雲が忍び寄ることになります。吉良は被害者ながら、相手を切腹のうえ改易に追いやった「負のイメージ」がつきまとい、幕府も対外的なイメージを考慮して彼を免職せざるを得ませんでした。
呉服橋(現在の東京駅そば)の一等地にあった屋敷は召し上げられ、当時は江戸郊外の新興地、本所松坂町(現在の両国駅の南)へ移り住むことになります。
傷心の中、隠居を幕府に願い出た彼は、真相はどうであれ十分な社会的制裁を受けていたはずでしたが、その矢先の赤穂義士による突然の討ち入りで、あわただしくその62年の生涯を閉じました。
近年、彼の領地があった三河吉良(愛知県西尾市)では、「名君、吉良義央」としての名誉回復が叫ばれています。
この「忠臣蔵」のように、ドラマや小説で知る歴史は、「現代人が見て楽しい物語」に脚色されていることがしばしばです。
「歴史に興味をもつ」ためには、ドラマや小説もいいきっかけにはなりますが、それを史実と鵜呑みにして人前で話すと、「恥」をかくこともあります。それに、生身の人間が織りなす「本当のドラマ」は、わかりやすい物語とは違う「史実の奥深さ」を実感させてくれるものです。
ドラマや小説で日本史に興味を持つのはよいことです。しかし、そこで終わりにせずに、歴史書で「本当の日本史」を学び直すことで、「歴史の奥深さ」と「本当の人間ドラマ」を味わってください。
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