「忠臣蔵」の美談は、ほとんど大ウソだった! 赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?

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赤穂義士のあだ討ちは「就活」が目的だった? 写真は「義士祭」も行われる、東京・高輪の泉岳寺(写真:シャネル / PIXTA)
元禄15年(1702年)12月14日深夜、江戸郊外の本所松坂町にある武家屋敷が襲撃され、その主である幕府旗本高家(こうけ)、吉良義央(きら・よしなか[または「よしひさ」とも])が、旧赤穂藩の義士47人(46人という説も)によって殺害された。世に言う「赤穂事件」である。
この事件は、前年の3月、江戸城中で起きた「ひとつの傷害事件」によって主家を取り潰された旧赤穂藩士による、いわば「復讐劇」である。
事件後、彼らの行為は「美談」として語られ、『忠臣蔵』の名で芝居の題材に取り上げられると、空前の大ヒットを記録した。その人気はいまなお衰えない。
しかし、そんな私たちの知る『忠臣蔵』は、実際には「美談ではなかった」とする見方も指摘されている。
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。
本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「忠臣蔵の真実」を解説する。

本当に『忠臣蔵』は実話なの?

『いっきに学び直す日本史』は「教養編」「実用編」合わせて17万部のベストセラーになっている(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

毎年、12月半ばを迎えると、日本ではなぜか『忠臣蔵』の新旧映画・ドラマが放映され、東京・高輪の泉岳寺では「義士祭」も行われます。

これは、元禄15(1702)年12月14日(旧暦)が、いわゆる「赤穂四十七士による吉良邸討ち入りの日」だったことと関連しています。いまや『忠臣蔵』は私たちにとって年末の風物詩でもあるわけです。

『忠臣蔵』では、清廉潔白の赤穂藩主「浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)」が、老獪な幕府旗本高家「吉良上野介(きら・こうずけのすけ)」にたばかられ、ご法度である殿中(江戸城内)での刃傷ざたを起こし、その罪によって切腹のうえ藩は取り潰しとなります。

しかし、吉良のほうは無罪放免。刃傷ざたにもかかわらず、片方が一切、罪に問われませんでした。これに怒った赤穂義士たちが「亡き主君の無念」を晴らすべく、屈辱の日々を耐え忍び、ついに悲願だった吉良の首を討ち取ります。

この爽快な「勧善懲悪」のストーリーは、時代を超えて私たちに感動を与えてくれますが、『忠臣蔵』はあくまで「赤穂事件をモデルとした物語」です。実際の出来事をすべて忠実に再現したものではありません。

それどころか、「赤穂事件」を詳しく見てみると、これまで私たちが描いていた「赤穂義士」の討ち入りの目的が、じつは「あだ討ち」ばかりではなかった可能性が垣間見られるのです。

いったい彼らの「本当の目的」は何だったのか、今回は「赤穂事件」をテーマに、「忠臣蔵の真実」について解説します。

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