「忠臣蔵」の美談は、ほとんど大ウソだった! 赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?
本当に『忠臣蔵』は実話なの?
毎年、12月半ばを迎えると、日本ではなぜか『忠臣蔵』の新旧映画・ドラマが放映され、東京・高輪の泉岳寺では「義士祭」も行われます。
これは、元禄15(1702)年12月14日(旧暦)が、いわゆる「赤穂四十七士による吉良邸討ち入りの日」だったことと関連しています。いまや『忠臣蔵』は私たちにとって年末の風物詩でもあるわけです。
『忠臣蔵』では、清廉潔白の赤穂藩主「浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)」が、老獪な幕府旗本高家「吉良上野介(きら・こうずけのすけ)」にたばかられ、ご法度である殿中(江戸城内)での刃傷ざたを起こし、その罪によって切腹のうえ藩は取り潰しとなります。
しかし、吉良のほうは無罪放免。刃傷ざたにもかかわらず、片方が一切、罪に問われませんでした。これに怒った赤穂義士たちが「亡き主君の無念」を晴らすべく、屈辱の日々を耐え忍び、ついに悲願だった吉良の首を討ち取ります。
この爽快な「勧善懲悪」のストーリーは、時代を超えて私たちに感動を与えてくれますが、『忠臣蔵』はあくまで「赤穂事件をモデルとした物語」です。実際の出来事をすべて忠実に再現したものではありません。
それどころか、「赤穂事件」を詳しく見てみると、これまで私たちが描いていた「赤穂義士」の討ち入りの目的が、じつは「あだ討ち」ばかりではなかった可能性が垣間見られるのです。
いったい彼らの「本当の目的」は何だったのか、今回は「赤穂事件」をテーマに、「忠臣蔵の真実」について解説します。
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