「忠臣蔵」の美談は、ほとんど大ウソだった! 赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?

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大石ら47人の旧赤穂藩士は、「義士」を装い、主君の「あだ討ちに見せかけた芝居」を演じました。そして、これを大々的に世間へアピールすることで、自分たちの「より高待遇での再就職」をもくろんだ節があるのです。

赤穂浪士の目的は「再就職」?

Q7.えっ? 赤穂浪士の仇討ちは「就職活動」だったのですか?

もちろん、現在の境遇に自分たちを追いやった吉良義央への恨みもあったでしょう。

しかし、彼らと浅野長矩が『忠臣蔵』で描かれるような深い絆で結ばれていたことを示す証拠はどこにもありません。そもそも、「主君のあだ」という意識そのものが、あまり一般的ではありませんでした。

むしろ、そのときの彼らの現実的心境は「浪人生活への恐怖」です。「なんとか再び仕官する道を見つけて、現状を脱却すること」こそが最大の関心事でした。

そのための秘策こそが「あだ討ち」だったのです。

Q8. 「あだ討ちの成功」が、なぜ「就活」になるのですか?

あだ討ちに成功すると、「世間の大きな話題」になります。しかも、当時このような行いは公的に認められた「権利」でもあり、殺人罪にはなりませんでした。

実際、大石らは事件後、一貫して自分たちの行動を「あだ討ち」であると主張しつづけました。

吉良邸討ち入りの後、義士の一行は吉良家と深い姻戚関係にあった上杉家からの報復の恐れもある中、本所から浅野長矩の墓のある泉岳寺までの9キロもの道のりを堂々とパレードします。それも、世間に向けて「あだ討ち」を印象づけるための「意図的演出」だったとすれば納得がいきます。

Q9. 赤穂事件以外にも「就活的なあだ討ち」はあったのですか?

ありました。江戸時代、あだ討ちは100件を超えるほどの事例があり、成功すれば人々から絶大な賞賛を受け、身分が武士であれば「再仕官」の口が引く手あまたでした。

「赤穂事件」以前にも同じようなあだ討ちが行なわれていて、仕官に成功した例もあります。

Q10.具体的に聞かせてください。

たとえば赤穂事件の約30年前に宇都宮藩で起きた「浄瑠璃坂のあだ討ち」では、「忠臣蔵」の事件とほぼ同じような経過で早朝に徒党を組んで押し入り、この者たちはいったんは流罪になりますが、のちに赦されてほとんどが再仕官に成功しています。

また、赤穂義士による討ち入りの前年にあった「亀山のあだ討ち」では、あだ討ちに成功した兄弟の仕官先を探そうと、江戸の北町奉行が奔走したこともありました。

大石らはこれらの事例を「模倣」して、自分たちも「より良い待遇での再仕官」を実現しようと、最もアピール度の高い「あだ討ち」を選んだと考えられるのです。

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