まず文章によってバレるのは、そもそも文章によって「伝えたいことが本当にあるか」、そして「それを正確に理解しているか」どうかである。
そもそも、その文章で「何を伝えたい」のですか?
【1】「そもそも伝えたいことがあるか」どうかがバレる
文章を書くうえで最も大切なのは、そもそも「自分が書きたいと思うこと」が内在し、それを書き出すことだ。企画書でもメールでも、ありもしない熱意を無理やり作り出しても、不思議と文面にもろに表れてしまう。
書き手が退屈しながら無理やり書いた文章は、読み手にとってはゴミ以外の何物でもない。自分が関心のないことについて何かを書くことほど、書く側にとっても読む側にとっても苦痛なものはないのである。
何か文章を書こうと思ったら、その前に「そもそも伝えたい情熱が宿っているか」を自問し、「自分が伝えたいことは何なのか」をきちんと理解しなければならない。
この意味で、まったく関心のないトピックに関し、無理やり文章を書かせようとする学校教育を、大きな声のシュプレヒコールで糾弾しなければならない。
学校の授業で、文章の苦手な子にまったく関心のない本の読書感想文を押し付けることが、結果的に、「中身のない文章を書く人」を大量発生させているのだ。
【2】「論理性・構造性」の有無がバレる
次に文章によってバレるのは、その人の「論理性・構造性」の有無である。文章を少し読めば、その人が論理的・構造的に思考をまとめることができるかどうかが、一発でわかる。
日本語の文章は、そもそも論理性に関するルールの縛りが弱く、下手すれば何を言っているかわからない文章になりがちである。
たとえば英文だと、エッセイの書き方には厳格なルールがある。タイトルは「全体の要約」になっており、パラグラフの最初の一行は「そのパラグラフの要約」か「一番伝えたいメッセージ」、そしてパラグラフの最後の一行は「そのパラグラフの要約」か「次のパラグラフの導入」になっていなければならない。
メールでも資料でも、何かを書くときには、このような「論理的構造性」が重要だ。一流の文章ほど、文章すべてを読まなくても、パラグラフの冒頭の文章だけつなぎ読みすれば、全体の骨格が理解できるように書かれている。
間違っても、だらだら書いた文章を、きちんと読み返さずに、「まあ伝わるだろう」などと送ってはいけないのだ。
「内容を知的・論理的・構造的に要約する」という社会に出てから最も役に立つ基礎的能力がきちんとトレーニングできていない教育機関は「二流の国語教育」だと酷評してさしつかえなかろう。
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