ずっと「死」が基本的なテーマ
──ぎょっとするタイトルです。
死がずっと基本的なテーマになっていた。20代の後半で死亡広告を出したり、自殺したポスターを作ったり。最初の作品集が『横尾忠則遺作集』であり、普段の物の考え方にも、自分を死んだと仮定して、死後の世界から生の世界を見ている発想がある。一般の人は死をひとごとと考えていて、自分のことと考える人は少ない。でも僕の年齢になると、ことさらリアリティを持ってくる。ついこの先のドアを開けると死の世界があるように身近に感じる。
──死後の世界から見ている発想とは。
生きていれば楽しいこと、苦しいことがあるかもしれない。だが、どちらを選ぶかは本人次第とはいえ、世の中に苦しいこと楽しいことは実はそんなにない。第三者的に見れば苦しくもないことに苦しみ、それが本人にとっては大問題だったりする。本来は大自然の中でどれが美しくてどれが醜いかなどなく、ただ存在しているだけだ。その人の美意識で決まる。決める側の人間の問題なのだ。
──その発想が、ご自身が無頓着である根源ですか。
無頓着は僕の「登録商標」のようなものだ。まじめで正直に生きることが正しいようによくいわれる。それは社会に対してか、自分に対してなのか。社会のためというのは大義名分的には美しく聞こえるが、基本は自分に忠実なことだ。子供のときはだいたい無頓着。大人になるにつれて、無頓着さがそぎ落とされていく。それをなお持っている人がいる。その大人になりそこなった部分が僕に絵を描かせる。
無頓着であることは気まま、わがままに通ずる。他人から好かれるか嫌われるかといえば、嫌われるほうが多い。自己中心的に見えるからだ。思いの丈を自分の絵に塗り込める。その絵は、描き終えたら僕から離れて独り歩きする。そのとき、絵は社会性を持ち、社会的な発言をする。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら