個性を認められたくば、発信方法は右に倣え 経済学、そして経済学者に「国境」はあるのか?

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人間が、「国境」に特徴づけられると想定すること

しかし、普遍的な「ヒト」ではなく、特殊個別的で多様な「ヒト」、即ち、「国境」で特徴づけられるような人間像を想定することは、科学的方法に対する態度のレヴェルにある「普遍性への信頼」と矛盾するものではありません。特殊個別的な多様性を包括するような、より高次な「ヒト」の概念を提示すればよいからです。

著者撮影:西欧の美を鑑賞する休日。「ランメルモールのルチア」というオペラを観に行きました

いずれにせよ、「国境」を「ヒト」の外側のみに限定するのか、それとも、「国境」は「ヒト」をも特徴づけるのかは、分析のフォーカス、即ち、何を問うて、それにどう答えたいのかということから決まってくる、ある意味で「技術的な」問題と言えるでしょう。

以上が「対象」に関してでしたが、ここで、もう一方である「方法」の問題、即ち、より微妙な問題へと近づくことになります。

「経済学の対象には、『国境』があるが、それはある程度は程度の問題である」ことを上で論じました。では、それを支える「経済学の方法」に関してはどうでしょうか。

普遍性の「土台」を考える

上で述べたことを敷衍するのであれば、経済学の方法自体には、「国境」はないということになるでしょう。ここには、「学」という人間の営み自体が「普遍」、最近流行りの言葉で言えば、「グローバル」を本質的に志向する性質を持っているからです。

しかし、普遍性を担保しているその土台(コンピュータ用語であるところの「プラットフォーム」)は、ある意味、世界史の流れの中において、政治的な要素を色濃く伴って決まってきた個別特殊的なものです。

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