しかし、現実の経済を対象とする場合においては、「国境」を無視できなくなってきます。
では、その違いを、人間を取り巻く社会制度的な環境の違いだけに帰することができると考えられるでしょうか。
制度の違いだけを考慮すると?
まずは「できる」とする考え方があるでしょう。たとえば、ある国の社会保障制度が、その国の人々の貯蓄行動にどのような影響を与えるか。
国の違いは、社会保障制度がAなのかBなのかという違いで表現され、結果として起こる人々の貯蓄行動は、それぞれの制度に対応してA’となる、もしくはB’となる、そんな因果関係として分析されます。
ここで「国境」は、活動主体である人間の外側だけにあって、人間自体は、「国境」で区切られない、普遍的な「ヒト」である、社会制度の違いのみによって区切られると、暗黙に想定されています。
お国柄まで考えると?
もうひとつ「できない」とする考え方もあります。
そもそも、ある国の社会保障制度がAであり、もう一方の国の社会保障制度がBであるのは、経済活動の主体である人間と独立に決まったものではなく、長い歴史の中で、それぞれの国の人々の人間性や文化によって形成されてきたものだという考え方、即ち、「ヒト」は「国境」で区分されているので、社会制度的な違いのみを見るべきではないという考え方です。
経済学は伝統的に前者の「できる」というスタンスを取ってきたものと思われます。
これは、経済学の黎明期である18、19世紀ヨーロッパの学者が、ギリシア=ヘブライ以来のヨーロッパ文明の特徴的な性質から「普遍的なヒト」を汲み取って、現代経済学の中心にある個々人の利益追求や、そういった個々人の競争関係といった抽象的な概念を彫琢してきた結果であると思われます。
このことは、経済学が自然科学のように、「国境」のない、「真の」科学であるかのような自信を経済学者に植え付けてきたのかも知れません。
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