道長は、2年後の1015年、眼の持病を理由に三条天皇に譲位を迫ります。結果、翌1016年、故一条天皇の皇子、そして何よりも、道長の長女・彰子(しょうし)中宮を母に持つ後一条天皇が即位し、道長は念願の摂政に就任しました。
(摂政は別に常任の職でなく、長らく不在で、それまで、内覧→准摂政として出世の階段をトップで登ってきた道長に強力なライバルはいませんでした。ナンバーワンであることには変わりないのですが、日本史で習ったように、「外戚」になって摂政に叙されることによって、より盤石な位置固めを狙う意味があったのでしょう)
歴史の妙、誕生を望まれなかった「あの子」が……
しかし、道長から摂政を譲り受けた息子の頼通(その後関白)は、ついには外戚になれず、また「俺に関白の地位を早く譲れ」と迫る弟の教通と仲がうまくいかず(結局は、教通も頼通の後に関白に就任はしますが)、藤原家による外戚政治は早くも陰りを見せます。
その後、白河天皇の頃から天皇家側が盛り返していくのは、日本史の教科書のとおりです。この白河天皇の父親、後三条天皇を生んだのが、道長が誕生に激怒したあの禎子内親王だったわけですから、歴史は面白いですね。
また、紫式部は、『源氏物語』を大部分書き上げて、1013年までには、宮仕えを辞していたと言われています。そう、私が歩いていた歩道は、かつて紫式部が行き来した通りだったかもしれない……(「足を踏みしめて」と書きたいところですが、移動のときは牛車に乗っていたことでしょう)。などというタイムスリップに興じながら一首。
「京の街
人波に浮かぶ山緑
千年(ちとせ)の昔の人も見しかも」
またしばらく歩いていると、カップル連れに賑わう鴨川にはカモの親子を見つけることができました。
さて、今回の話題に入りましょう。
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