監督の三浦大輔さんはすごく粘って作品を作られる方で、俳優さんたちも本気度が凝縮された最後の一滴みたいな演技を繰り広げてくださった。話の筋を知っているので、ストーリー自体が面白いかどうかは私はなんとも言えないのですが、演技、音楽、演出と、それぞれの分野のスペシャリストが力を振り絞ってくれている、ぜいたくで刺激的な作品だと思います。
――原作にかなり忠実に映画が作られている印象です。
そもそも監督は「映画は原作者のもの」と公言されている方です。僕は映画は監督のものと思っていますが、その監督のスタンスが脚本づくりの段階でビシビシ伝わってきました。クランクインする直前にも二人で食事に行き、脚本の細かい点について確認をされました。僕はできるだけ人物のセリフを話し言葉で書くようにはしているのですが、小説なのでどうしても書き言葉っぽい部分もある。しかし、そこも含めて脚本にそのまま活かされているくらい、原作を尊重していただきました。
一方、三浦監督が演劇を長くやられていたからこそ生まれたであろう演出が後半にたくさん出てきます。原作にあまりにも沿っていると、映画化した意味を問われがちですが、後半部分は映像にする面白さや三浦監督が撮った意味が付与されていた気がします。そこで作品がきちんと生まれ変わっていますね。
就活で感じたことを標本のように残したかった
――『何者』は就職活動のリアルを上手に再現しているように見えました。
書いたのは今から4年半ほど前、ちょうど新入社員として毎日慌ただしかったころです。就職活動を終えて一年くらいしか経っていない頃で、その時に感じたことを標本のように残しておくのも文学の役割のひとつと考えました。そういうと大きな話になりますが、社会学として読まれる文学というのが数年に一冊あるような気がしているんです。すっごくおこがましいですけど、高校生という空気を標本として残しておこうと思って書いた『桐島、部活やめるってよ』は未だに新書などに引用されることが多く、文学というよりは社会学として読まれた感覚があったんです。
こうした本は、「すぐ読まれなくなる」「3年後に使われない単語がいっぱい出てきている」などと言われがちなのですが、それはそれで意味があると思っています。僕が見たもの、聞いたもの、感じたこと、考えたことを、できるだけそのままの温度で物語に織り込んでいくという行為には、文学を超えたひとつの意味があるのかもしれないと。まさに「標本を残しておく」という気持ちで書いていました。
――朝井リョウさんは2012年に一度企業に入社されたと伺っています。ということは、就職活動をしていたのは厳しい就職環境だった2011年になりますね。
マイナスな報道しかなく、実際にマイナスなことが多かった気がします。中でも東日本大震災を挟んだことが大きかったと思います。面接が始まったころに震災がおき、「東京で就職するのか」ということから考え直さなければならなくなった。無理矢理埋め立てていた自分の柔らかい部分が掘り起こされて、「きちんと考えなければ」と。それはかなり精神的に消耗する作業でした。
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