山形 そういった「ツボを押さえることは素晴らしい」というイメージは、当時のSFには強くありました。I・アシモフの『銀河帝国の興亡』に出てくるサイコヒストリアン(心理歴史学者)たちとか、A・E・ヴァン・ヴォーグトの『宇宙船ビーグル号の冒険』に出てくるネクシャリスト(総合科学者)たちですね。かつては、それらが憧れの対象となっていた時代もあって、P・クルーグマンが経済学者を志したきっかけもそうだったなんて話もあります。
稲葉 僕の場合も、それは幼児体験のように刻み込まれています。その後、僕自身のSFに対する熱も急速にさめていきましたが、小松左京の書いたような教養のイメージだけは、ずっと残っていました。
山形 これらのSFの登場人物たちは、非常にオーソドックスな、体系にのっとった形で知識や情報を整理していて、自分の体系の中から、目前の問題解決のために必要なものを引っ張り出してくるわけです。
今日では、これと対置されるものとして、「Google」をはじめとするインターネットの検索サイトによって、知識を得るというやり方もあります。何かわからないことがあると、とりあえずGoogleで検索する。そうすると、いちばん上には人気のあるサイトが挙がってきますが、それで本当に大事な情報を得られるかどうかはわかりません。
かつてのSFの登場人物たちのような古典的な教養のあり方と、Google的なものとは、対立とまでは言わないけど、対照的なものと言ってよいかもしれません。大きな流れとしては、Google的な方向に偏りつつあるのでしょう。だからこそ、昔ながらの体系的な知識というものがかえって価値を高めている、ということであれば、バランスがとれて美しいのですが、そんなうまくいくわけはない。
とはいえ実際には、Googleの背後には、「ツボを押さえた」形で情報を整理して、インターネット上にそれを載せるという、古典的な教養のあり方に似た作業をしている人たちがたくさんいるわけです。逆に、すべての人がGoogleに頼るようになると、Googleそのものが成立しなくなってしまいますね。
明治学院大学社会学部教授。1963年生まれ。主な著書に『経済学という教養』(東洋経済新報社、2004年)、『オタクの遺伝子』(太田出版、2005年)、『「資本」論--取引する身体/取引される身体』(ちくま新書、2005年)、『マルクスの使いみち』(共著、太田出版、2006年)、『モダンのクールダウン』(NTT出版、2006年)等。
ウェブサイト:http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/
評論家・翻訳家。1964年生まれ。主な著書に『新教養主義宣言』(晶文社、1999年)、『たかがバロウズ本』(大村書店、2003年)、訳書に『環境危機をあおってはいけない』(ビョルン・ロンボルグ著、文藝春秋、2003年)、『クルーグマン教授の〈ニッポン〉経済入門』(春秋社、2005年)、『ウンコな議論』(ハリー・G・フランクハート著、筑摩書房、2006年)等。
ウェブサイト:http://cruel.org/
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