稲葉振一郎・山形浩生
教養とは何か、現代日本人に教養は必要なのか--社会思想研究家の稲葉振一郎氏と翻訳家・評論家の山形浩生氏が、さまざまな切り口から「教養」を語る。
山形 4月に「国際秋葉原サミット 萌え立つアキハバラ・デザイン」というイベントにパネリストとして参加しました。同じシンポジウムに森川嘉一郎(桑沢デザイン研究所特任教授)が参加していて、彼が言うには、たとえばオタクの中でもある世代の人たちは、「機動戦士ガンダム」の細かい話題をたくさん知っている。それが一つの、「教養」というか「共通の基盤」になっているわけです。もちろん、他の世代には他の世代なりの「共通の基盤」があるわけです。
つまりは、オタクと言われる人たちも、単純な刺激に対する反応を繰り返しているだけの、「動物化」した人たちとは言えなくなっています。そういった状況で、「教養を身につけて、『動物化』から抜け出して、より上の段階に進みましょう」と主張はできないでしょうね。
稲葉 さらには、世の中の秩序を支えるのは、「動物化していない」人々なのかということも、一概には言えない問題ですね。
たとえば1990年代に宮台真司が「まったり革命」ということを言い始めました。要するに、社会にとって、公共性を担うエリートたちは確かに必要だし、彼らはああでもない、こうでもないと余計なことを考えますが、大部分の大衆は「まったり」していてよい、というわけです。この「まったり革命」もある意味では、「動物化」論の先取り的なところがあります。
山形 宮台はその後、「意味から強度へ」つまり、体系的な知識に基づくのではなく、その場の感覚的な強度で物事をやればよいのだ、という議論に進みましたね。ねらいはよかったと思うけど……。
稲葉 これは僕の深読みとも言えますが、「まったり革命」の議論の背景には、オウム真理教が起こした一連の事件があったかもしれません。オウムには、いわゆるエリートたちがたくさんいました。インテリが妙な理想にかぶれて暴走すると、ろくなことにはならない。むしろ、「まったり」している一般大衆が、どこにも暴走せず、自分の快楽だけに固執していることが、社会の秩序の重石となっている。宮台の議論にはそういう感覚があるのではないでしょうか。
山形 それに対する反論としては、一般大衆はそもそも「まったり」してるんだから、ことさら宮台が言い出すまでもない、とも言えますね。
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