稲葉 僕自身は、『モダンのクールダウン--片隅の啓蒙』(NTT出版、2006年)では、3項図式のようなものを考えてみました。一方には、無反省なテクノクラートというか、思い上がったエリートがいて、他方に愚かな大衆がいて、その間に「かたぎの庶民」がいる、というイメージです。もちろん現実の社会が、こういうふうにきれいに分かれるとは思っていませんが、ある種の機能というか、傾向として見ることはできるのではないか。一人の人間の中に、あるいは社会全体に、あるときにはテクノクラート的な方向に走るような傾向があり、その裏返しとして「動物化」していく傾向もあり、あるいは、自分の無力とか無知とかをわきまえながら、世界に対して広い視野を持つという「かたぎの庶民」的な部分もあるのではないか、という図式です。
その「かたぎの庶民」を、僕は「ヘタレ中流インテリ」と呼んでいます。自分のヘタレ性を自覚した上で開き直らない、理想的な意味での「よき市民」です。ある意味では、かつての「プチブル」(プチ・ブルジョワ)の言い換えかもしれませんが、それよりはもう少し臆病で、ひねくれていて、目覚めてはいるけど「私、目覚めました」と言うのはあまりに下品なので、目覚めたかもしれないけど、目覚めた自分に「本当かよ」と絶えず突っ込んでいく機能を備えている。これが暫定的な「ヘタレ中流インテリ」のイメージです。
山形 多くの人が--僕や、稲葉さんも多分そうだと思うけど--その3項図式で、上に入るのは面倒くさそうで、どちらかというと下のほうに近い気分はあるけど、自分は「動物化」していると認めるのもどうかと思うから、何となく、中ほどの位置にいるのでしょうね。そうすれば、「自分は上ではないから……」といって謙遜もできるし、他方で下のほうの人たちに対して優越感も持てる。いわば、いいとこ取りをしているような気もします。
明治学院大学社会学部教授。1963年生まれ。主な著書に『経済学という教養』(東洋経済新報社、2004年)、『オタクの遺伝子』(太田出版、2005年)、『「資本」論--取引する身体/取引される身体』(ちくま新書、2005年)、『マルクスの使いみち』(共著、太田出版、2006年)、『モダンのクールダウン』(NTT出版、2006年)等。
ウェブサイト:http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/
評論家・翻訳家。1964年生まれ。主な著書に『新教養主義宣言』(晶文社、1999年)、『たかがバロウズ本』(大村書店、2003年)、訳書に『環境危機をあおってはいけない』(ビョルン・ロンボルグ著、文藝春秋、2003年)、『クルーグマン教授の〈ニッポン〉経済入門』(春秋社、2005年)、『ウンコな議論』(ハリー・G・フランクハート著、筑摩書房、2006年)等。
ウェブサイト:http://cruel.org/
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