石破茂氏、「寄らば大樹という言葉は嫌いだ」 本当のことを言わなければ政治家ではない

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

石破:実際、この大きな変化に気づいた人・自治体・企業はすでに行動を起こし始めています。私も365日、目いっぱいやったという自負はあります。しかし、その変革の動きはまだ点であり、面にはなっていません。やり遂げるには、引き続き政権の強い意思が必要なのです。

2年前、安倍首相から「地方創生が、日本経済にとって最も大事だ。これをやり遂げるのは石破さんをおいてほかにいない」と言っていただいて、大いに意気に感じ、担当相をお引き受けしました。

有馬:しかし、1年経って2015年秋から、政権のメインテーマが、事実上「地方創生」から「一億総活躍社会」に変わってしまいました。安倍首相は常にスローガンを掲げて引っ張っていくタイプですが、新しい看板として掲げた一億総活躍社会という目標に、果たして内実が伴っていたのかどうか。

石破:私は「一億総活躍社会」は「地方創生」の一部あるいは延長線上にあると思っています。だからこそ、地方創生担当相を続けさせていただいたのです。日本全国に意識改革を広め、変化を不可逆的なものにしたかったからです。しかし、一大臣が一所懸命にやっても限界があるのも事実です。その意味で、政権全体の強い意思として「地方創生」が継続し続けることを希望しています。

「3回目の総裁選」へ、決意して準備する

有馬:今回の内閣改造で、石破さんは、党の総務会(常設機関としては最高の意思決定機関、25人で構成)のメンバーではありますが、約9年ぶりに主要ポストからは身を退く形になりました。政策集団(派閥)の水月会での発言などでも、次期総裁選への出馬を否定していません。私も、次の首相として「岸破聖美」(岸田文雄外相、石破茂前地方創生担当相、野田聖子元総務会長、稲田朋美防衛相)4人の最右翼として名前をあげましたが、今回は充電をしつつ、「安倍政権後を担う決意」を固めたということですね。

石破 茂(いしば しげる)/1957年2月4日生まれ。自民党衆議院議員(鳥取1区、現在10期)。慶応義塾大学卒業後、1979年三井銀行入行。1986年、鳥取県知事だった父の死後から約5年後、28歳で衆議院議員初当選(当時最年少)。1993年自民党を離党するなどして新進党結党に参加、その後自民党に復党。2002年防衛庁長官(第1次小泉内閣第1次改造内閣)として初入閣。以来、防衛大臣、農林水産大臣、党政調会長、幹事長、地方創生担当大臣を歴任。現在は党の政策集団(派閥)・水月会会長

石破:実は小泉内閣で防衛庁長官を務めた後も、約3年間(2004年秋~2007年秋)ほど、役につかなかったことがあります。自分で言うのもおこがましいですが、その間は相当に勉強した記憶があります。

最も力を入れたのは、自民党の国防政策を決める「防衛基本政策検討小委員会」の委員長として毎週行った講義でした。

テーマは「集団的自衛権を行使可能とするために」です。そのためには「安全保障基本法を作る必要がある」という結論に至り、佐藤栄作内閣時代からの国会での関連議事録などをすべて取り寄せて、ことごとく読みこんだりしました。

結果的に2007年から福田康夫内閣の時に防衛大臣を拝命し、その後麻生内閣での農林水産大臣、野党時代の政調会長、予算委員会筆頭理事、野党時代から与党になってしばらくの幹事長、そして地方創生担当相と、9年連続で役職を与えられてきましたが、その間あの「3年間の猛勉強」でつないでいたような気がします。

逆に言えば、ポストに就いている時は、体系だった勉強をする時間がなかなかとれず、自分の中に恐怖感があったことも事実でした。ですから、ここまで休む間もなく務めてきて、今までのことについて整理したり、知らない分野について習得したりするための期間が必要だと思ったのです。

次ページ総理は狙ってなれるようなものではない
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事