起こった因果関係を歴史学者が勝手に説明するのではなく、さまざまな可能性を描くのが大事だ。非常に蓋然性は低くても、起こったことの意味の大きさから言えば、事実に驚いたほうがいい。それでも、起こったのだ。そう認識すれば、いずれにおいてもその過程でさまざまに努力を払うべき度合いを高くしようという促しになる。
──その際は選択肢をはっきりさせることが必要ですね。
三度問われた機会にも、選択肢が本当の実態を反映させた形でわかるようにメディアや学校で示されてはいない。そういう時代があったことをいつも頭の隅に置いておけば、「AするためにはBしなければいけない」「もしこうすれば、確実に~できる」というような選択肢を国家なり政党なりから問いかけられたときにも、批判ができるし、冷静な判断を下せる。
──特に政治や外交では選択肢が見えにくい。
仮に日本が困難な交渉に至り、世論が中国をたたけというような絶望的な方向になったとする。その最後の交渉に外相が行くのを、どうせダメといった気持ちで見るのではなく、むしろ0.3%の蓋然性でも起こったことがあると思い返し、あらゆる選択肢を思い起こすことだ。
最悪の失敗例を詳細に知っておくことで、その失敗例が歴史上の現実になったこと自体、必ずしも蓋然性が高くて起こったのではなかったことを理解する。その連関をつぶさに知れば冷静に物事を見る目を養うことができる。
リットン報告書が一番の大きな曲がり角
──最悪の失敗例として、この三つを選んだ理由は。
1929年に世界恐慌が始まっていた。この三つはいずれもそれ以降の日本の、経済的な行方を左右する条件を決めていく交渉事だった。中でも1931年の満州事変を契機とするリットン報告書が一番の大きな曲がり角だ。妥結の可能性も高くあり、松岡洋右外相もあれだけ粘る。中国側の報告書に対する本当の反応は、日本側の既成事実に配慮しすぎだと厳しく批判したもので、実際に読んでもらえば、報告書が中国側に一方的に肩入れしたとのイメージは一変するはずだ。そのあたりを丁寧に議論した。
いずれも日本の憲法原理を問われ、それに答えなければいけない交渉事であり、米国と日本が不倶戴天の関係になっていく流れを促した。日本は第1次世界大戦以降、1920年代に資源を輸入して製品を輸出する大きな工業国として成長していた国。米国と協調できていた。それが1930年代からうまくいかなくなる。東アジア、西太平洋で米国の自由貿易、自由航行を許すのかどうか。両国の憲法原理で譲れない部分の戦いだ。それが戦争直前の10年間に三度にわたり問われたのだ。
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