一度きりの死、いかに死んでいけばいいのか 死を考えると生き方が変わる
かつてそうであったように、最期まで家族の世話になりながら自由気ままにできればいい。しかし、現実的には難しい。では、施設での生活を改善できるか、ということになる。難しそうな気がするが、少し視点を変えるだけで可能であったという実例が示されている。そのひとつがアシステッド・リビング施設、日本語では『日常生活動作支援介護付き高齢者集合住宅』である。
そこで「冒してもよいリスクと避けたいリスクを決める」のは、施設ではなく、家で普通に暮らしているのと同じように、入所者自身である。当然のように、発足当時、高齢者の安全確保を第一に考えてきた人たちから非難をあびた。しかし、調査の結果、アシステッド・リビング施設では、入所者の生活満足度が高いだけでなく、健康も身体能力も認知能力もが高く保たれ、さらに経費も低くてすむということが明らかになった。
よく生きるためには、生きる理由が必要
最大限の自立をめざして、より積極的な介入を試みた施設もある。これも簡単といえば簡単なことだ。施設で犬、猫、インコなどペットを飼うようにしただけである。すると、入所者は生気を取り戻し、しゃべれないと思われていた人がしゃべりだした。使われていた薬剤費が38パーセント、死亡は15%減少した。死亡率まで?という気がするが、ペットの導入を思いついた医師は「生きる理由を求める人間の根源的なニード」がその理由だと考えている。
これらふたつのエピソードからだけでも、よく生きるためには、生きる理由が、そして、自分の意思に基づいた自律的な生き方が必要であることがよくわかる。それは老化だけではなく、不治の病に冒された場合も基本的には同じである。しかし、老化がある意味で自然経過であるのに対し、がんは突発事故のようなものだ。なので、治療が困難ながんが死すべき定めとわかった時、どう対応するかは、より難しい問題になる。
“不治の病の患者に対して、全力を尽くして治療しながら、これは患者が望めばいつでもすぐに降りられる列車だと説明している”
これが多くの医師の態度だ。一見、極めて妥当である。しかし、医学がいくら進歩しても、確率として治療の結果を語りうるが、個別例がどうなるかを予言することはできない。それに、進歩した医学知識を一般の人たちが十分に理解するのは難しい。だから、このやり方は「疑念と恐怖と絶望の間で引き裂かれている」ほとんどの患者と家族に対して望みすぎなのである。
といったところで、最終的な決断は、患者と家族がおこなわざるをえない。考えてみると当たり前だが、どのあたりで列車を降りるか、は、列車に乗る前に決めておくべきことだろう。健康な間から考えておいて損はないはずだ。もちろん、列車に乗ってから気が変わることがあってもかまわない。その列車の降りどころを考える上で重要な示唆を与える研究が紹介されている。
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