鬼が出家する時代に
私はこれからの時代は、出家の時代だと思っています。文字どおり、お坊さんになるという道を主体的に選ぶ人もこれまでより増えるだろうと思いますが、そうでなくとも、出家的な生き方を自ら望んでそれを実際に選ぶ人こそが、これからの社会を作っていくリーダーとなるでしょう。
世俗のただ中に身を置きながら価値観のレベルで俗世間から離れ、人生そのものを修行の道場とし、既存のムラ社会から自由に飛び出しつつ、社会に対してよいインパクトを与えるような、出家的な生き方。そう格好よくは生きられないのがまた人間というものでもありますが、私はせめて、そういう生き方にあこがれを持ち続けたいなとは思います。
坊主こそ改めて出家の必要がある
お坊さんが出家にあこがれるなんて、おかしいですか? 『葬式をしない寺』の著者、應典院の秋田光彦住職とお話しさせていただいたとき、「お坊さんこそがあらためて出家しなければならない時代になっている」という趣旨のことを述べられていました。私もそのとおりだと思います。
日本のお坊さんというのは、今では世襲で継ぐ家業という側面が強くなっており、場合によっては一般のビジネスマン以上に、「出家」しにくい環境にあります。各宗派でひととおりの修行は修めるにせよ、自ら主体的にその生き方を選び取るという出家の決意をする契機のないまま、仏教界という閉じたムラ社会に没入してしまう人も少なくありません。そうすると、世俗から離れて心自由に生きるというより、世間からずれた価値観に固執して生きるということになってしまいます。
前回のコラムでも触れましたが、「出世」という言葉が生まれた背景にも、そのような仏教界の事情が反映されています。出世という語はもともと「出世間」から来ており、俗世間の煩悩を断って悟りを開くこと、あるいはそのために仏教の世界に入ることを意味しました。
しかしやがて、お坊さんの世界も世俗のコピーのような階級社会となり、「出世」という語も、その社会の中で位が上位に上がっていくことを意味するようになったと言われています。「出世間」という仏教的な言葉の意味が、仏教界のあり方そのもののせいで誤解されているというのは、何とも情けないことです。
今後は仏教界であろうとビジネスの世界であろうと、どんぐりの背比べで組織内の階段を上ることに汲々としていては、これからの社会の将来を担うリーダーシップは磨かれません。今こそ、出世=出家という、本来の意味に戻るべき時です。
人生は、他人との競争ではなく、自分との戦い。ごますりをやめ、こだわりを捨て、他人の物指しで自分の人生を測ることをやめること。
さあ、来るべき未来が、あなたの出家を待っています。
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