今回の映画を作るにあたっての葛藤はあります。これを簡単に「いけ」というわけにはいかない。つまりみんな、僕も含めて葛藤があって。それを自分にすべて問いかける必要があるんですね。震災のときに自分は何をしていたのか。もっと言えば、それ以前にどう生まれ、どう育ってきたのか。何に傷つき、何に喜んできたのか。何が正しいと思い、何が正しくないと思っているのか。全部、自分に問いかけられている感じがしています。
――真実を伝えるだけなら、ドキュメンタリーでもいいではないか、という意見もあるかもしれません。そんな中で、君塚監督は物語をどのように位置づけているのでしょうか?
真実を伝える手段として、ドキュメンタリーや、ジャーナリストが文章にするといったことはあると思いますが、僕は創作物によって、ウソを作ることで真実に向き合えることもあると信じている。僕が今まで培ってきた技術を使って、入り口の広い、けれども見終わったあとに、知らなかった世界、あるいは知ろうともしなかった世界を感じてもらったり、知ってもらうことをやりたいと思っているんです。かつてそういう日本映画がたくさんありましたからね。
――遺体安置所のセットも真に迫るものがありました。おそらく現場にいたら相当な圧力を感じるのではないかと思うのですが。
スタッフも毎日つらかったと思います。ただ、どこかでスタッフたちは、映画人ができる供養はこれしかないんだという気持ちを持って、歯を食いしばって撮ってくれました。
この作品に込めた「覚悟」
――ご遺体も一体ずつ作らなければいけない。ドロだらけのご遺体は硬直していて、安らかな体勢に戻してあげるために筋肉をほぐしていくといった描写なども、きちんと目をそらすことなく描き出しています。
伝えることが大前提だと思うんですよ。お客さんがどうとらえるのかはわかりませんが、自主規制で描くのをやめるようなことはダメだと思います。僕は、この作品に関しては、覚悟決めて生涯責任を取りますよ。
――3.11を経験したわれわれは今後、どのように生きていくべきか。若きサラリーマンたちに向けて、アドバイスをいただけないでしょうか?
3.11以降、被災地以外の人たちは、心から被災地のことを心配していたと思います。でもそのうちに何もしていない自分に気づいた。テレビや報道を見たり、本を読んだりしても、向こうの人たちの苦しみが分からないという後ろめたさや不平等感は、僕も含めてみんなものすごく感じていたと思う。
だけど、少なくともこの作品を撮ったことで、僕がその不平等感や後ろめたさが減ってきたと感じられたのは、例えば相手のことを思うようになったり、作品を見た人が元気になってくれたからだと思うんです。それは自分が動いたから。あるいは嫌われることを恐れないで伝えようとしたから。僕個人で言えば、そういうことを感じました。とにかく動かないとだめですよね。
こういう言い方は偉そうに聞こえてしまうかもしれませんが、たとえば黙っていることで、そこで起きているトラブルを回避するこができてしまう。でもやり過ごしてしまうと何も進まない。僕がこれを撮って、公開したらいろいろと問題が出てくるかもしれません。もしかしたら僕のやり方は間違っていたのかもしれません。それでも少なくともやり過ごさなかったということだけは自信を持って言えます。
(撮影:吉野純治)
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