高校野球は甲子園球場を「無料」で使っている 放映権収入もナシ、驚きの「ビジネスモデル」

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たしかに、高校野球に比べると大学野球のコンテンツとしての貧弱さは目を覆うばかりだ。6月12日に行われた全日本大学野球選手権記念大会の決勝戦は、観衆わずか7000人でメディアの扱いも小さく、注目度はきわめて低かった。

それに比べれば、鈴木長官も観戦した早慶戦の観衆は2万6000人である。それに続けという気持ちはわかるが、1903年に早稲田が慶應に“挑戦状”を送ったことがきっかけとされる両校の戦いがそれなりの注目を集めるのは、対抗戦的な色彩が“見世物”として成立しているからである。スポーツ興行を活性化させるポイントは、商業化してカネを動かすことではなく、何をウリにするかなのである。

その点からいえば、高校野球のウリは“高校生らしさ”である。修行僧のように頭を丸めた野球部員たちが放課後や休みを返上して長時間練習に励んでいることを、他の在校生たちや学校周辺の住民たちはよく知っている。

だからこそ、一発勝負という厳しいトーナメント戦を勝ち抜き、晴れて代表の座をつかんだ高校球児たちを応援しようという気持ちになるのである。

甲子園大会では、最後まで勝負をあきらめない、はつらつとしたプレーで観衆を沸かせる。たしかに高校球児にはプロ野球選手ほどの技術はないが、そのかわり彼らには“高校生らしさ”というウリがある。プロ野球のようなファンサービスはせず、ユニフォームは地味な色とデザインで企業のロゴマークなどは付けず、無駄とわかっていても一塁に頭から滑り込む。派手なガッツポーズは控え、三振してもヘルメットをグラウンドに叩きつけたりしない。

徹底したアマチュアリズムこそがウリ

そして一発勝負の試合に負けて甲子園球場を去らなければならなくなったときには、悔し涙をぬぐってグラウンドの土を集めるのだ。こうした商業性を排除したアマチュアリズムの世界で披露される汗と涙と土にまみれた全力プレーが、甲子園の観衆を魅了するのである。

高校球児たちが自らの意思に反してこうした行動をとっているかどうかは定かではないが、今どきこうした高校生が存在すること自体、きわめて珍しいといえるのではないだろうか。

すなわち、甲子園大会に出場する高校球児は、現代社会から消えつつある「絶滅危惧種」あるいは「特別天然記念物」ともいうべき存在であり、そうした球児たちが躍動する高校野球は「重要無形文化財」に等しいものだ。高校野球ファンはこうした姿に「失われたものへの憧憬」として価値を見いだしていると考えられる。

経済活性化のため、学生スポーツを商業化しようという現政権の意気込みは理解できなくはない。しかし、重要なことは学生スポーツが何をウリにしているかを見きわめることである。

高校野球のウリは“高校生らしさ”であり、それを支えているのは徹底したアマチュアリズムと商業性の排除である。そこが維持されているからこそ、甲子園球場には大勢の観衆が訪れ、メディアは全試合放送し、国民はテレビに釘付けとなる。あえて商業化しないことが高校野球を“ビジネスモデル”として成立させているのである。

中島 隆信 慶應義塾大学商学部教授

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なかじま たかのぶ

1960年生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(商学)。専門は応用経済学。著書に、『新版 障害者の経済学』『高校野球の経済学』『お寺の経済学』『大相撲の経済学』(以上、東洋経済新報社)、『経済学ではこう考える』(慶應義塾大学出版会)など。

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