この点に照らすと、イギリスのEU離脱は、同国やEUの再編を超えたより大きな問題を世界に提起している。
すでに明らかになったことだが、イギリスのEU離脱派は、グローバル化とそれに準ずると見なされたEU統合に対し、ときに強烈な違和感をもっていた。それは、主権意識、反移民感情、国民アイデンティティの動揺、反エリート主義、雇用不安、生活水準の停滞・低迷など、様々なかたちをとり、しばし重複する。たとえば、グローバル化やEUと連なる政経官学エリートは、自分たちの声を軽視し、移民を大量に許容し、安定した就業と慣れ親しんだ生活スタイルを脅かしている、といった感覚である。
この点で興味深いエピソードがある。あるイングランド北部での集会でのことだ。離脱・残留の色をつけずに「客観的」なデータや「中立的」な意見をバランスよく提供する「専門家」として出席したロンドン大学の教授が、「EU加盟や移民流入は国内総生産(GDP)にとってプラスとする経済学者の意見が多い」と紹介したところ、聴衆から「それはお前のGDPだ、俺たちのではない」という野次が飛んだという。
根っこにはこうした階層意識があり、それはグローバル・EUエリートに忘れ去られてきたという疎外感と密接に絡み、「専門家」の職業的な分析すらをも、吹き飛ばしてしまう。この根本的な不満や不安に切り込んでいかなければ、〈国家主権=民主主義〉の組み合わせがグローバル化(およびEU)に向けられ、いつでも暴発する(見方によっては開放される)可能性がある。
「ホブソン・モーメント」の到来か
けれども、一国が国民主権の発露の結果グローバル化に背を向けても、グローバル化自体をキャンセルできるわけではない。その意味で、〈国家主権=民主主義〉に引きこもるのが「理想解」でないこともまた事実である。
トリレンマの解消に魔法のような解はないが、現在必要とされることを端的に言えば、グローバル化によって置き去りにされた先進国の中流以下の階層に対して実質的な価値を付与し、支援インフラを構築する「国内的改良」と、放縦のままであるグローバル化をマネージする「国際的組織化」とを、組み合わせることだろう。
かつて『帝国主義論』を著し、のちにレーニンやケインズに多大な影響を与えたJ・A・ホブソンは、過剰貯蓄の末に膨張し、海外に投射されて行く資本を、過少消費に陥る国内に逆流させ、労働者に価値付与する構想を披露した。これは、世界にまたがる帝国的な政治経済権力の改革と、国内の社会民主主義的な改良とをつなげる稀なアイディアだった。
現代にそのまま適用できるわけではないが、求められているのは、国際と国内、資本と労働とを橋渡し、先の〈グローバル化=国家主権=民主主義〉のトリレンマを緩和する、この手の包括的構想である。逆に、それを示さないと、中間層は実際にやせ細り、グローバル化によって見捨てられたと感じ、〈国家主権=民主主義〉の組み合わせを通じて、いつでもグローバル化に刃を向けることになる。
具体的には、日に500兆円に上るとされる資本取引へのトービン税のような動きからタックス・ヘイブンのような税逃れの世界的規制まで、あるいは、法人税の「底辺への競争」の協調的回避から労働や安全基準の国際的なすり合わせに至るまで、グローバルな協力・再編を多方面・包括的に進める一方で、国内においても中間層への支援を全面的に推し進める必要があるのではないだろうか。
そのためには、国際協調のもとで企業が過剰に溜め込む内部留保をはき出させ、そうして確保した各国の税を使い、中間層の所得アップを図り、子育てから介護まで就労支援のインフラ整備に取り組まねばなるまい。これらは必要なことの包括的なリストではないが、この類の「国際=国内改革の組み合わせ」を提示しなければ、グローバル化の利益が、「先進国の所得上位1%」と「新興国の労働者」だけでなく、忘れ去られた先進国の中間層にとっても還元されうるのだと彼ら自身が実感することは難しかろう。
その意味で、21世紀初頭の現在求められているのは、20世紀初頭に出されたホブソン流の構え方なのである。無限膨張の資本が国内の労働者に還元され、そのことで改編された世界の下の改良された国内で、中間層が健全な民主主義を実践しつづける構図が追求されねばならない。
これを「ホブソン・モーメント」と呼ぶことにしよう。そうした論理を誰が紡ぎ、どの政治的人格が引き受けていくのか。イギリスの事例は、EUの再編をも超えて、そうした問いを世界中の国に突き付けている。今回の出来事が真に世界史的な事件であった所以である。
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