「1964年生まれは、摂生している人が多い」 内村光良が「金メダル男」への思いを語る

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――夢にむかって脇目もふらずに突き進む人生もある一方で、内村さんのような人生もあるんだなと。

あの時は、就職先が本当にない時期でした。一応、「お笑いスター誕生!!」を受けることになりましたが、一回戦で落ちていたら辞めていたかもしれないです。でも、ギリギリ受かったんですよ。あれが自分の人生を左右した。「思い出作りだよな」なんて言いながら、のほほんとしていましたが、受かって、さらにその後もトントントンと勝ち上がっていったのが大きかったですね。あの時は、「とにかく無心でいきなさい」というようなことを父親から言われていて、とにかく無心でいきました。欲を出さずに、練習したことをやろうと。だからあの時、もし一回戦で落ちていたらと思うとゾッとしますよね。

お笑いがあるから映画を作れる

――信念に沿って、その道を突き進むタイプと、目の前で起きたことを受け入れながら進んでいくタイプがあると思うのですが、内村さんは後者ですかね?

お笑いに関しては、目の前に偶然現れた仕事でしたけど、そこからはしがみつきましたね。チャンスが来たんだからやるだけやろう、努力はしよう、だからいっぱいネタを書こうと思って、ネタをたくさん書きました。だからギリギリ受かったのかもしれませんね。あの時、怠けていたらダメだったろうと思います。ただ、だからといって、映画しかないんだという頑固さもなかった。そういう意味では柔軟性があったのかもしれません。そこらへんは不思議な巡り合わせだなと思います。

――その生き方は、この主人公にも通じますね。

そうですね。空回りはしてきたけど、思わぬところで一等賞をとったりする時もあるし。でもそれもこれまで頑張ってきたからこそのご褒美かもしれないです。そして、この人は挫折を繰り返してもめげない。一等賞をとるんだという一点でこの人は生きていますから。

――映画監督という仕事は、ご自身にとってどんな位置づけなのでしょうか。

やっぱり中学の時から映画を作りたいということだったので、映画監督はすごく大きな夢です。でもこれはお笑いで頑張ってきたから、映画を作れるんだという意識がある。だからお笑いはおろそかにしてはいけないというのがあります。そんな中で、自分は欲張りだから、今後も映画を作るチャンスがあれば、作り続けていきたいという気持ちはあります。

――主人公・泉一のように転がり続けると。

そうですね。きっと転がり続けるんでしょうね。

壬生 智裕 映画ライター

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みぶ ともひろ / Tomohiro Mibu

福岡県生まれ、東京育ちの映画ライター。映像制作会社で映画、Vシネマ、CMなどの撮影現場に従事したのち、フリーランスの映画ライターに転向。近年は年間400本以上のイベント、インタビュー取材などに駆け回る毎日で、とくに国内映画祭、映画館などがライフワーク。ライターのほかに編集者としても活動しており、映画祭パンフレット、3D撮影現場のヒアリング本、フィルムアーカイブなどの書籍も手がける。

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