民主主義で、尖った表現は生まれるか? 奇才・会田誠の発想の原点(上)

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こうして僕のなかで、トーマス・マンの19世紀的芸術家像と同時代のサブカルチャーが1つになり、漠然と表現者になりたい、という思いが固まっていったのである。

そのなかで、絵や彫刻やインスタレーションといった美術はバカでもできるという気がして、たとえば文学などよりはヒエラルキーが下と思っていた。もっとも、大学院に入った頃には、僕が軽蔑していたバカは僕自身だったと思い、将来は美術家になるしかないと観念した。

しかし、現代美術で食べていくのは無理だろうとも思っていた。現代美術作家が作品で生活していくには、日本は世界一過酷な環境にあるといってよい(この状況は今も同じである)。これは、日本には現代美術のコレクターが絶望的に少ないということに起因する。

もっとも、当時はそれほどお金や将来のことを真剣に考えてはいなかった。すでにバブルは崩壊していたが、バイトの求人はあったので、とりあえず餓死はしない。あまり悩んでもしかたがないと思っていた。

アートは多数決からは生まれない

会社員に向いていないと思う理由は、何といってもデスクワークが苦手なことだ。何せ机の前にずっと座っているのが苦痛なのである。さらに、会社員になったら避けては通れない会議も苦手だ。この世で僕が苦手とする最たるものが会議といってよい。

美術家といえども、たまには会議に出席することがある。美術館で予定している展覧会の内容をどうするか、グループ展の趣旨をどうするか。ところが、これから会議が始まるというとき、会議の雰囲気が整った時点で睡魔ががーっと襲ってきて、思考が停止してしまう。

机が整然と並び、参加者がそれらしい発言をしていくという会議そのもののスタイルがどうも駄目なようだ。

少数派ではあるだろうが、世界には僕のような人たちも一定の割合でいるはずである。どうか、米国あたりで、僕のような人間向けに、座らないでうろうろ歩きながら行う会議、できればオープンエアで歩き回りながら行う形式の会議を提唱してもらえないだろうか。

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