必然であることと、予測できるかどうかは別の話
哲学者のヘーゲルは「個人の経歴とは違って歴史は、偶然に左右されない」と考えていました。つまり「歴史の進行は必然である」と。
しかし歴史が必然であるとしても、「予測できるかどうかは話が別だよな。むしろ歴史は思ったとおりにはならないほうが圧倒的に多いよな」としばしば感じます。
グローバリゼーションが進展し、物や人、さらに情報の流動性が高まれば、ローカルな慣習や伝統は希薄になっていくだろうと、かつては考えられていたものでした。
しかし現実には流動性とともに異文化接触の軋轢も高まり、グローバリゼーションが進むとともに、どこの国でもむしろナショナリズムの高揚が見られるようになった。
シャッター商店街の出現のようにローカルな伝統が希薄になる一方で、過激な言葉で他者を排斥する潮流も顕在化するようになりました。おそらくこれは、多くの人にとって予想していなかった出来事ではないでしょうか。
まったく人の世は思ったとおりにはなりません。
20世紀にミルトン・フリードマンが「選択の自由」を訴えて以来、数十年が経ち、世の中には確かに自由があふれるようになりました。
かつては人生のレールといえば「いい学校を出て、いい会社に入れば、一生安泰」というモデルが中心だった。そして学校も、そのモデルに基づいて、たった一種類の物差し、偏差値で人を測っていたものです。
あの頃は転職というとずいぶん思い切った選択というニュアンスがありましたし、幾度か職を変えると、それはもうスキャンダルのにおいさえ感じられたものでした。
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