リサーチのやり方にも問題があるかもしれない。サンプルに偏りがあったり、質問の仕方が悪かったり。
しかし、こうした考え方そのものにこそ問題がある。数をたのめば疑いを消せると考えてしまっているのだ。確かに、数で乗り越えられる疑問もあるだろう。だが、どんな主張も例外的かもしれない、間違っているかもしれない、もっと根本的には、嘘かもしれない……と、究極的な疑問は消えない。
これは、どんなに深いインタビューをしようとも変わらない。聞いたところで、本音はわからない。もっといえば、心というものが、どのくらいはっきりあるのかさえ怪しい。嘘かもしれないというより、そもそも本当も嘘もないのである。
「みんな」の認識は、自分にこそ宿っている?
大事なのは、みんながどのように思っているか確かめることではない。彼女なる人の主張や行動を見て、何かに気づいてしまった「自分」のほうに注目するのである。
どうして、その主張や行動を見て、あっ、と思ったのだろう。そういえば、と考えたのだろう。この感覚の理由を問い直してみてはどうだろう。
自身が女性であれば自分の気持ちと一致していたからかもしれないし、男性であれば、奥さんがそうだと思い出したせいかもしれない。
あるいは、具体的ではなくても、「子どもや女性は暗い所を怖がるだろうし、特に小さい子どもを持つお母さんには切実な問題だろう」と日頃の認識から考えたのかもしれない。
自分がそう思ってしまった理由をあらためて洗い出し、社内でも議論してみる。こうして初めて、ある女性が照明を買ったという書き込みに対して自分が、あ、そうか、と思った理由を、よりはっきりと理解できるようになる。
この過程で、「やっぱり大した気づきではなかった」と思うようになるかもしれない。しかしそれは、女性たちの書き込みが例外的なものではないかと考えたり、その書き込みの真偽を疑う、というスタンスとは違うように思う。
さらにいえば、実はこの考え方は、みんながそう思っているのかどうかを確認する手掛かりにも、結果として繋がる。
なぜならば僕たちは、その女性たちと同じ日常を生きているからである。彼女らの書き込みに、あ、なるほど、とあなたが思ったこと自体、すでに一般性の担保に繋がっているのではないだろうか。
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