今回は、野球解説を中心に幅広いタレント活動をしている田尾安志さんのお話です。
プロ野球選手として活躍、引退後は、全日本代表チームや東北楽天ゴールデンイーグルスの監督として指導者の立場でも野球に携わってきました。そんな田尾さんが野球に目覚めたきっかけや、部員が5人しかいない弱小野球部に所属して奮闘した高校時代、大学生になって、「プロ野球選手になりたい」という意志をかためたとき、監督から受けたユニークな助言など、学生時代のエピソードを聞かせてくれました。
また、自身の子育て体験の中から感じた教師、教育のあり方など、お話を伺いました。
●裏山でバットを振り回していた少年時代
小学校は大阪の学校に通っていました。自宅の裏が公園で、小学3、4年生くらいになると、学校が終わるとそこに集合して毎日のようにソフトボールをしていました。当時はまだ公園でバットを振り回したりすることができましたが、今はもうキャッチボールをするのもうるさいくらいですね。小学校の頃の思い出というと、勉強はあまり印象に残っていません(笑)。1年生から6年生までずっと学級委員をしていて、児童会長もしたのですが……う~ん、やっぱり勉強の思い出はありません(笑)。
小学5、6年のときの担任は男の先生だったのですが、その先生が宿直のときは、毎回5、6人くらいの友達と一緒に遊びにいきました。先生といっても、友達感覚なところがありましたね。塾に通っていない子の方が多かったからみんな時間がたくさんありました。もちろん、宿直室に集まって勉強なんかしません。何時間に一度点検のため校内を歩くのですが、暗いところがお化け屋敷っぽくて、それを楽しんでいました。
●美味しいものにつられ、野球に夢中
ソフトボールを卒業し、小学5年から草野球チームに、6年からはリトルリーグに入りました。関西で初めてリトルリーグができたのです。自分からではなく、スカウトされて入りました。リトルリーグに入ってみると、試合でいろいろなところに遠征をする。試合のあとは、美味しいものを食べさせてもらえるんですね。この頃水泳もやっていたのですが、「ああ、やっぱり野球はいいな」ってね(笑)。水泳は学校のチームですからそんな良い思いをすることはないし、それにもう、単調になっていたのです。野球は毎回違う内容だし、試合に勝つと美味しいものが食べられる。こんな風に「野球のほうが面白い」となりました(笑)。メジャーリーグで活躍した長谷川滋利さんが、メジャーリーガーになったという実感が一番湧いたのはチャーター機での移動のときだと言っていましたが、それに近いものがありますよね(笑)。
似たような話はまだあります。ハンマー投げの室伏選手は、昔、野球をしていたそうです。監督が水を飲ませてくれなかったので、野球をやめたということです。監督がそこで水を飲ませていれば、もしかしたら、すごい野球選手になっていたかもしれないですね(笑)。
リトルリーグでは、全国大会で準優勝しました。幼いなりに、その年代のトップクラスになれたという気持ちになりました。
●厳しい先輩からの特訓
中学では野球部に入りました。朝練で、毎朝7時からグランドを20周走ったりしていました。一学期間は体力作りということで、腕立てや懸垂をしたり。でも、その後8時から20分間だけサッカーをやるんです。それが楽しくてね。みんな朝練はいやいや通っていたんですけど、サッカーが楽しくて続いたんですね(笑)。厳しい先輩がいて、バットを挟んで正座を3時間させられたり、ケツバット(笑)もありました。そういう意味では、野球人生の中で、中学のときが一番厳しかったかな? でも、みんな部活動を続けました。そういうものなのだと思っていましたから。バットにタオルをまいておいたりして、いかに対応するかを考えていました(笑)。
結局、その体力作りは一学期間では終わらず、一年間ずっと続きました。そのお陰もあったのかどうかはわかりませんが、僕らが3年生になったとき、大阪市の大会でベスト4進出できました。
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