(第27回)<田尾安志さん・前編>野球にずっと飢えていた中学、高校時代

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●部員5人。入部早々レギュラーに。

 当時僕のポジションはファーストで、リリーフでピッチャーもしていました。高校進学を考えた時には、甲子園に出場するような強豪校にいきたいという気持ちになっていました。
 進路を決めるときに担任の先生から、「野球校に行くよりは普通の高校に行ったほうがいいんじゃないか」と言われました。それなら、もし故障しても、また大学に行って野球を続けられるじゃないか、とうまく丸め込まれてね(笑)。ひとつ、強豪校から勧誘があったそうですが、僕の知らないところで、母が、「普通の高校に行けるなら行って欲しい」と担任の先生に話していたようです。母は公立の高校に行って欲しいということで、野球部があるならと、大阪府立泉尾高校に進学しました。そうしたら、野球部員が5人しかいなかったんです。2年生が2人、3年生が3人という、野球の試合ができないチームだったんです。僕はそのとき一瞬、担任の先生を恨みました。「騙された」と(笑)。

 ラッキーなことに同級生が20人入部して、途中で辞める者もいましたが、トータルで部員が15人になりました。なんとか試合にも出られ、嫌でもレギュラーになれたんですね。中学時代に野球をやっていなかったやつが何人もいましたから、レベルがすごく低い。だから、ちょっと名前の通った学校に練習試合を申し込んでも相手にしてくれないんです。僕はリトルリーグで活躍し、野球はトップクラスでやっていたという自負があります。「こいつら生意気に練習試合を断るなんて」という、それが僕のエネルギー源でした。公式戦で絶対にこうしたチームをやっつけるんだ、と。僕の高校野球というのは、甲子園に行くという意識じゃないんです。あの連中をぎゃふんと言わせてやりたいていうね(笑)。だけど、キャッチボールもまともにできないくらい、本当にレベルが低いチームで……。
最初の夏の大会は、17対0で負けました。5回コールドです。フライあがったら、とれないんですよ。「こりゃあ、まいったな」って思いましたけどね(笑)。でも僕はピッチャーをやっていましたから、0に抑えれば負けないという、そういう気持ちでいました。

●弱小チームだからこそ、野球への思いが強くなる

 もし、このとき野球の名門校に入っていたら、まったく様子が違っていたと思います。多分、「やらされている」と思ったでしょう。弱い高校にいたから、なんとしてでも「野球をやりたい」という気持ちが高まったのです。実際、他のクラブもみな同じグラウンドを使っていますから、普段は内野しか使えないわけです。バッティング練習も週に二回しかできない。野球をすることに飢えた状態です。だから、この頃は朝早く学校にいって自主練をしていました。でも、他のやつは、誰も来ない……。誰も来ないから一人で練習する。高校では、だいたい朝一番に登校していました。

 僕の高校野球は17対0で始まったわけですが、高校3年の最後の夏の大会ではベスト4まで残りました。そのとき、二回戦であたったのが、春の選抜代表校の近大附属でした。二回戦で優勝候補に当たってしまい、ああ、もう終わっちゃったって。しかし、なんと4対0で勝ったんです。3安打完封でした。ちなみに、そのとき近大附属に勝ったということで、全国紙の朝日新聞に写真入りで出ました。そして、次の試合も1安打完封で勝ちました。でも、僕は欠点があって、連投がきかないんです(笑)。いつも、土日しか試合をしないし、土曜日に投げたら日曜日は二番手ピッチャーがいたので、せいぜい投げても1イニング、2イニングだったのです。中5日きっちり休んでいましたからね。そうしないと、速い球が投げられないんです。夏の大会で、こんなに続けて投げるとは思わなかったから(笑)、もう肩が上がらないんですね。

●強豪校を破り、ベスト4!

 近大附属に勝って、もしかしてとは思わなかったか?って、いえいえ、まったく甲子園を意識していた野球じゃないんです。それで次も1対0で勝ち、その次、北陽高校にあたりました。ここは僕が行きたかった学校でしたが、ここにも5対2で勝った。行きたかった高校にも勝てたというのが嬉しかった。その次に大商大附属と対戦し、逆転の3対2で勝ちました。「まさかあいつが」っていうようなやつがこの試合で打ってね。なんか、漫画を見ているようでしたね(笑)。
 僕らのチームでは、誰かのせいで負けたとなると、みんなでそいつをとことんけなすんです。誰も慰めない。
 「お前が下手だから負けたんだ」って。言われたやつは、その次の日からノックを受けるんです。いきなり200本とか。自分でやりたいっていうんです。だから、傷口をなめ合うというのではありませんでしたし、本当に面白いチームでした。

[参考]第53回全国高校野球選手権大会・大阪府予選(昭和46年)
1回戦 泉尾 3−2 × 此花商
2回戦 泉尾 4−0 × 近大附
3回戦 泉尾 1−0 × 春日丘
4回戦 泉尾 5−2 × 北陽
準々決勝 泉尾 3−2 × 大商大附
準決勝 泉尾 × 1−9 浪商

(取材:田畑則子 撮影:戸澤裕司 協力:スカイコーポレーション

田尾安志<たお・やすし>
1954年生まれ。大阪府出身。同志社大学卒。
1976年ドラフト一位指名で中日ドラゴンズに入団し、最優秀新人賞を受賞。1985年西武ライオンズへ移籍。1987年 阪神タイガーズへ移籍。1991年 阪神タイガーズ退団、引退。翌年から野球解説者・タレントとして活動開始。2001年 アジア大会で全日本代表チームのコーチに就任。2005年 東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。同年9月25日限りで退任。以降、野球解説者としての活動を再開。バラエティ番組のメインパーソナリティや情報番組キャスターと、活動の場を広げる。
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