(第28回)<田尾安志さん・後編>指導者に必要なのはまず人間性

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(第28回)<田尾安志さん・後編>指導者に必要なのはまず人間性

●将来像が見えず、大学進学を決める

 高校最後の大会でベスト4になったことで、広島カープから誘いがあったらしいのですが、僕は何も聞かされなかったんです。「同志社行くやろ」って。うちにはお金がなくて、授業料もしんどいような状況だったので、母は働いて欲しいという気持ちはあったみたいですけどね。それでも僕は大学に行きたくて、もしお金がなかったらどこかでスポンサーを見つけようと、そのくらい自立心が強かった。
 大学に行きたかったのは、何がしたいというのが、高校のときは見えなかったからです。まさか、プロ野球から誘いがきているとは思ってもいなかったし、何がしたいというのがないまま、社会に放り出されるのは不安でした。大学4年間のうちに何か見つかるんじゃないかと、そういう気持ちで進学しました。

●勉強と野球の両立

 大学1年のときは、部員が少なく、4年まで集めても25人しかいなかった。全員がベンチ入りできる人数です。
 当時助教授だった大学の監督が、もともとプロ野球に10年いた方で、授業を優先させてくれたんです。大事な授業は、練習を休んでも行かせてくれた。他の大学の選手とは違っていたようですね。僕は2年の時に大学の日本代表に選ばれたのですが、そのときに他の大学の選手と話す機会があって、「やっぱり同志社はアカデミックだな」って言われましたから。
 1年生のときはゲームに出られませんでした。だいたい土日にゲームがあるのですが、当時は大事な授業が土曜日にあったから。僕はゲームに行かないで授業に出ていました。そしたら先輩に怒られてね。
「25人ベンチ入りできるから、授業があってもゲームの日は来い」ってね。それで、ゲームの日はやっぱり行かなくちゃいけないなって思いました。
でも、野球も勉強も両方できてよかったです。

●野球好きの仲間がたくさんいる

 大学野球はオフシーズンが長い。トータルすると、1年の4ヶ月はオフだったと思うのですが、その間、一般の学生と同じような生活ができるんです。実際に一般学生と同じように、授業の後に麻雀をしたりするんですけど、それがダラダラしてるんですよね。「なんだ、これならクラブをやってるほうがいいや」と思ったことがあります。
 高校のときは野球をやりたい、やりたいという思いがありながら、なかなか環境が整わないような状況でした。その分、他の野球校でやってきた連中とは違って、人一倍吸収しようという気持ちが強かった。同志社の中でも甲子園経験者が半分くらいいましたが、彼らの中には「辞めよう」というやつもいた。グランド整備を毎日二時間ぐらいさせられますし、殴られたり、なんだかんだありましたからね。僕は、とにかく野球をやりたいという気持ちが強かった。高校の頃は自分ばかりが野球をやりたいだったけど、大学には野球好きがかなりいて、そういうのが嬉しかったり。プロにいくともっと野球馬鹿がいましたが(笑)。

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