アキバの道路は、どうして渋滞知らずなのか 火事や青果市場、神田祭が紡いできた歴史

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秋葉原の街を南北に貫く、片側3車線の中央通り
秋葉原と聞いて何を連想するだろうか。電気街、メイド喫茶に加え、近年ではAKB48や中国人の「爆買い」かもしれない。ただ、この街自体をよく眺めていると面白いことに気づく。店に人が溢れているのとは裏腹に、メインストリートである中央通りでは全く渋滞が起こらず、非常にスムーズに車が流れているのだ。
実はこの光景、「秋葉原」という街の名の由来や、すぐ近くにある神田明神とも大きな関係がある。事情に詳しい人々の言葉を織りまぜながら、その謎に迫る。

 

「渋滞になったのを見たことがない」。この地で生まれ育った千代田区議会議員で、街の世話役でもある小林たかや氏は、中央通りについてこう語る。「大型バスに乗って電化製品の爆買いに押し寄せる中国人の勢いは現在も鈍っておらず、アニメ関連グッズを目指してやってくる欧米人も相変わらず多い」にもかかわらずだ。

謎を説く最初のカギは道路網にある。中央通りと並行して南北に走る大きな2つの通り(昌平橋通り、昭和通り)や、東西を貫く蔵前橋通りなどが、観光客を下ろして迎えに行くまでの間、大型バスにとって絶好の待機場所になっているのだ。

ともに片側3車線である中央通りと昭和通りの間隔は、JRの線路を挟んで300メートル程度。地元の万世橋警察署の伊東英樹交通課長も、「片側3車線の通りが、たったこれだけの距離で並走している例は珍しい。街自体を見ても、パトカーが入っていけない道がない」と語る。

かつては将軍様の墓参道

中央通りは銀座や日本橋も通っているが、秋葉原の南辺りから特に道幅が広くなって上野まで続く。千代田区立日比谷図書文化館の高木知己・学芸員によると、これは「江戸時代に将軍が、徳川家菩提寺の上野寛永寺に参詣する『お成り道』だった」ことと関係している。

高木氏によれば、秋葉原の周辺は明治維新の翌1869年の大火事で焼け野原となった。その後、現在のJR秋葉原駅を中心とする地域には原っぱが残り、その中心に「鎮火社」という神社が置かれた。火事の延焼防止でこうした「火除(ひよ)け地」を設けるのは江戸時代からの習慣だった。

当時の関東・東海地方では火除けの神として静岡県に総本山がある秋葉大権現が有名だったことから、庶民の間でこの鎮火社が秋葉神社と呼ばれるようになった。このため、東北地方からの物資を東京に運び込む貨物専用駅が1890年にこの地に置かれた際、「秋葉原」の名がついた。

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