アキバの道路は、どうして渋滞知らずなのか 火事や青果市場、神田祭が紡いできた歴史
秋葉原駅では下ろした荷物を船に積み替え、水路を通じて神田川に出し、東京各地に流通させていた。JR東日本の広報担当者によると、秋葉原駅の駅長室には現在でも秋葉神社の「分社」が残る。非公開だが、神棚のような形をしているとのことだ。上野駅から北東にしばらく歩いた一角にも、秋葉原駅が整備された際に移ってきたとされる「秋葉神社」がある。
次の節目は1923年の関東大震災で、江戸時代から神田川の南にあった巨大な青果市場が壊滅したことだった。市場はその後復興したものの、「延焼防止目的で東西方向に整備された靖国通りに分断される形になったのに伴い、1928年に秋葉原駅の西北に移転した」(高木氏)。その際、市場の東に昭和通りが整備され、現在の秋葉原の道路網の原型が出来上がった。
青果市場は1990年に大田区に移転するまで、秋葉原に存在し続けた。跡地には現在、UDXなどの巨大ビルが建つ。一方、戦後のGHQによる指導でラジオや電子部品の露天商が規制されたことから秋葉原駅のガード下に店が集まるようになり、電気街へと発展した。
千代田区議の小林氏は、「青果市場があった当時、中央通りの片側3車線のうち歩道寄りの1車線は常にトラックに占領されていた」と盛況ぶりを振り返る。「市場が無くなって、その分のスペースが空いた」ことが、渋滞が起きない要因だという。
目配りしやすい体制
万世橋署の伊東課長は、同署の取締り体制も効果を挙げていると語る。「交通課約25人のうち、駐車違反に携わる人員はたった4人だが、警視庁が契約するみなし公務員である駐車監視員は2人1組で7〜8組が常に動いている」。一方で、同署の管内は約1.5平方キロと都内の警察署では2番目に狭いため、目配りも効きやすい。「よく秋葉原に来る人にとっては、駐車違反できないイメージが強い」ことが抑止力になっているわけだ。
両氏は町会の結束力の強さも指摘する。「どこどこ1丁目という単位ではなく、江戸時代以来の小さな地域単位で町会がある。町会長は先祖代々の住居を貸しビルに改装して最上階に住んでいる例が多い。ビルオーナーであるため税務署の法人会で先輩後輩であり、区や警察との連携も非常によく取れている」(伊東氏)、「駐車違反があったら、すぐ警察に苦情が行く」(小林氏)現状が、交通整理や防犯に寄与しているのだ。
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