イスラム国は「間違った外交」から始まった 世界史から見ればニュースがわかる
その疑問に答えるために、「なぜISがイラクから生まれたのか」を歴史的にひもときます。
なぜイラクからISが生まれたのか
ISが誕生した直接的な原因は、2003年に始まった「イラク戦争の失敗」にあるのですが、根本的な原因は、オスマン帝国がイスラム世界を支配していた時代までさかのぼります。
19世紀当時のオスマン帝国は、トルコからバルカン半島、エジプト、アラビア半島まで広大な範囲を支配下に置いていました。オスマン帝国の支配層はトルコ人でしたが、支配下にキリスト教徒のヨーロッパ人もいれば、アラブ人やクルド人もいるという多民族国家。特定の宗派ばかりを優遇すると反乱が起きてしまいますから、世俗主義でゆるく国を治めていたわけです。
20世紀初頭の第一次世界大戦で、ドイツ側についたオスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアなど連合国と戦うことになります。そこで、連合国側は、オスマン帝国を混乱に陥れようと考え、アラブ人の民族独立運動を煽ります。
この戦争のさなか、イギリスとフランスの間で、ある密約が交わされました。
オスマン帝国を倒したあとに、アラブ人の住む地域を山分けにしようという談合です。エジプトはすでにイギリスが押さえていたので、そのほかのアラブ人居住地を、英・仏が勝手に線を引き、分割しました。
具体的には、シリアとレバノンはフランスが取り、その南側のヨルダンとイラクはイギリスが取る。そして、ヨルダンの地中海側のパレスチナには、あとでヨーロッパからユダヤ人を送り込む。これをアラブ人には内緒で決めてしまったのです。
これをサイクス・ピコ協定というのですが、イギリスの目的は、当時のイギリスにとって最も重要な植民地であったインドへのルートを確保することにありました。イギリスからインドに商品を輸出したり、万一反乱が起きたときに鎮圧するために、インドへと通じる道が必要だったのです。
アラブ人居住地をうまく分割すれば、地中海からヨルダンに入り、ヨルダンとイラクの間に鉄道を敷いて、ペルシャ湾からインドに到達することができます。
このときイギリスとフランスが「定規で引いた線」が、今のシリアとイラクの国境線になっています。国境線が直線的なのは、こうした歴史があるのですね。
イギリスとフランスは自分たちの都合を優先して国境線を引き、そこに住む民族や宗派を無視していました。したがって、適当に引かれた線で誕生したイラクという国には、南東部にシーア派、西部にスンナ派、北部にクルド人、というように異なる民族や宗派が混在する結果となったのです。なお、クルド人はスンナ派ですが、イラン系の少数民族なので、アラブ人とは対立関係にあります。
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