幸之助は弱みを強みに変えることができた 見せかけの強さから出発してはならない

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松下は小学校4年中退である。父親が米相場に手を出して失敗し、それまでは大きな蔵があるようなけっこう素封家(そほうか)であったらしいが、いっぺんに貧困な生活に陥る。両親と兄姉で10人いた家族は、みんな大阪に出て働かなければならず、帰る故郷もなくなった。

ところがその家族さえ、次々に死んでいく。松下が7歳のときに姉のひとりが死んでから、28歳までに親兄姉みな結核で死んでしまった。しかも松下は20歳のとき、肺尖カタルにかかってしまう。結核の初期段階である。医者に診せると、「仕事を休んで郷里に帰って養生しなさい」と言われたという。

血を吐きながら病院へ行った

ところが、カネもなければ、帰る故郷もない松下は、体をいたわりながら仕事を続けるしかなかった。やがて事業を始めて間もなく、経済的に多少余裕ができたときになって、ようやく病院に出かける。

「途中、道々で血を吐いてな。たいしたことはなかったけどな、しかし、その血を見て、ついに来るものが来たと、そう思ったわ」と、時折語ってくれた。

結核にはならなかったが、松下の体は生涯病弱であった。40過ぎぐらいまでは寝たり起きたりの状態で、ずっと体に気をつけながらの人生であった。

衆知を集めて経営をしたのも、わしが学校出てなかったからやな。もし出ておれば、わしは人に尋ねるのも恥ずかしいと思うやろうし、あるいは聞く必要もないと思ったかもしれん。けど幸いにして学校へ行ってないからね。そういうことであれば、人に尋ねる以外にないということになるわな。それで経営も商売も、人に尋ねながらやってきた。それがうまくいったんやな。そういうことを考えてくると、今日の、商売におけるわしの成功は、わし自身が凡人だったからだと言えるやろうな

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