「国衆は強く、甲斐は災害続きで収穫が不安定」絶望的な境遇の武田信玄が愛読した意外な実用書!《大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目》
父が亡くなり、信虎が13歳で家督を継ぐや否や、伯父の油川信恵が幼い信虎に容赦なく襲いかかってきた。信虎は若輩ながら、信恵らに見事に勝利すると、国人の領主たちを押さえていく。
そして国内をまとめるために、敵対者だった大井信達の娘と結婚。その結果、生まれたのが信玄である。
笹本正治氏は『武田信玄―伝説的英雄像からの脱却』で、信虎が内乱に苦慮した様から、このように新たな信虎像を打ち出している。
「国人たちは極めて独立性が強く、いつでも武田家に反乱する可能性があったのに対し、信虎の国人たちへの支配力は弱く、信虎と彼らの関係はたとえ臣従したとしても、同盟関係のようなものであった。信虎といえども、国人たちの所領の中にはほとんど立ち入ることができなかったのである」
そんなバラバラだった国内状況を踏まえれば、信虎が強引に統率した事情も理解できなくはない。信虎は、なんとか国内をまとめようと、「棟別銭(むなべちせん)」という各家を対象にした課税を負わせた。
甲斐国の統一をほぼ果たしたからこそできた経済政策だったが、家臣たちからすれば当然、評判が悪い。
また信虎が対外政策を積極的にとったことも、家臣たちの大きな負担となったようだ。
信虎は諏訪氏と同盟を締結すると、信濃への侵略を開始。1日で36もの城を落とすという結果を残しながらも、国内ではすこぶる評判が悪く、反信虎派によって駿河に追放されてしまった。
暴君・信虎にとって代わったのが、息子の武田信玄だった。
信玄の情報戦を支えた2冊の実践本
さて、ここで信玄の立場になって考えてみてほしい。
父を追い出したクーデターは、反信虎派の家臣たちによって仕掛けられたもので、自分は祭り上げられた後継者に過ぎない。
もし、自分もまた父と同じように、下で働く人間にそっぽを向かれたらどうなるか。父の二の舞になることは、避けられないだろう。
とはいえ、災害続きの甲斐国は収穫が不安定だったため、食糧を調達するために対外戦争は避けられない。そうなると、なるべく負担の少ない戦をして、しかも勝利する必要がある。
そう、まさに「戦わず勝つ」ことこそが、信玄の状況的にもベストであり、それを目指さざるを得なかったのである。


















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