「国衆は強く、甲斐は災害続きで収穫が不安定」絶望的な境遇の武田信玄が愛読した意外な実用書!《大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目》
孫子の『兵法』では次のようにある。
「百戦百勝、非善之善者也(常に戦いに勝つというのは最善の戦略ではない)
不戰而屈人之兵、善之善者也(戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり)」
戦わずして勝つ──。その状態に持っていくには、どうすべきかを考え抜いたのだろう。信玄は戦に挑む前に臣下を潜入させて、相手方の状況をよく探った。
徳川家康との「三方ヶ原の戦い」でも、家康側の兵力や布陣を調べさせたうえで、相次いで徳川方の城を攻略。家康が居城の浜松城に逃げ込むと、あえて素通りすることで、相手を挑発した。
まんまと信玄の術中にハマった家康が薄く左右に広がる「鶴翼(かくよく)の陣」で挑むと、信玄は魚の鱗のように中央が前方に突き出た「魚鱗(ぎょりん)の陣」で短期決戦に挑み、家康を大敗させている。
そのように、戦に挑む前の情報戦で数々の勝利をつかんでいけば、相手が勝手に恐れてくれるようになる。
信玄は武者の甲冑や鎧、刀の鞘、そして鞍や鐙などの馬具も、すべてを朱一色に染めた。そのほうが目立つからだ。
思惑通り「武田の赤備え」と他の戦国大名から恐れられるようになり、信玄はなるべく戦うことなく、相手が逃げ出すような環境を手に入れることとなった。
厳しい国内状況のなか「戦わずして勝つ」に活路を
まさしく、孫子の『兵法』を実践した結果、「戦国最強」とも言われた信玄。
しかし、たとえ、どれだけ名著に出合おうとも、本のメッセージを生かせるかどうかは読者次第だ。信玄の場合は、生まれながらにして「いかに戦わないか」をどうしても考えなければならない状況下に置かれていた。
信玄は1521年に甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれた。父の信虎は暴君で、暴虐の限りを尽くしたらしい。日蓮宗の僧侶が記録した『勝山記』では、信虎について「余りに悪行を成され候」と書かれているくらいだ。
だが信虎からすれば、生まれたときから武田家は内紛がひどかったため、強引な手段に出るしかなかったのだろう。


















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