「地方民が憧れたサブカル誌」「ヴィレヴァンでよく見かけた」 "平成"をつぶさに記録してきた、伝説の雑誌『東京グラフィティ』その後の意外な姿
「取材では謝礼を出せないこともデメリットでした。僕が仕事を始めた頃は、雑誌メディアに登場することに価値を感じてくださる人も多くいました。しかし特にコロナ禍後、一般の方が雑誌メディアに出ることに意義を感じず、むしろ警戒心が高まったように感じています」
以前と同じように作ることが難しくなり、新規の読者も獲得できない。そして受注による売り上げも下がっていき――コロナ禍が終結しても同誌の勢いは戻らなかった。
「25年の1月に『4月に会社を畳む』と当時の編集長でもある社長から言われました。このまま会社を継続すればお金がつきそうだから、その前にやめる、と。当時僕は編集チーフでしたが、自分の仕事がなくなることと、大好きな雑誌がなくなることのダブルのショックでした」
「僕が続けないと、この雑誌の文化が消える」
当時14名いた社員たちは、次の職を探すために就職活動をはじめたというが、仲野さんは意気消沈し、その気にはなれなかったという。そのときも、どちらかといえば自分の就職先よりも、『東京グラフィティ』がなくなることのほうが気にかかっていた。
「編集部員になってわかったんですが、『東京グラフィティ』って知ってくれている人は多いけど、毎号集めているような熱烈なファンを見る機会はありませんでした。たとえばお宅訪問の取材に行くと、本棚には『BRUTUS』や『POPEYE』は並んでいるけれど、『東京グラフィティ』があることはそうそうない。
そう考えると、実は自分が“この世で1番のファン”なんじゃないか、と。僕が続けないと、この雑誌や、これまでグラフィティが作ってきた文化は消え去ってしまうと思ったんです」
会社が解散する4月になっても就職先は決まっておらず、仲野さんは考え抜いた末の行動に出る。社長に『趣味で続けさせてください』と直談判したのだ。



















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