「唐のポチ」か、それとも「アンチ」か。白村江の戦いから続く、日本の"大国への追従"と"一時的反抗"のループ
唐はといえば、周辺諸国に自分たちの意に沿う王を置き、ローカル支配を任せる「羈縻(きび)政策」をとっています。「おまえはどうするんや」と唐に問われれば、天智天皇は従うしかなかったでしょう。
もともとは大国にアンチだった人も、自分がトップに立てば、大国の力を認めさせられ、大国のポチとなっていく。そのような図式は、その後の日本の歴史でも繰り返されます。
壬申の乱は「アンチ唐」派の反撃
天智天皇が転向して、「アンチ唐」の人たちは不満を溜めこむことになりました。その不満が、天智天皇の死後、爆発します。なぜ爆発したかというと、唐の圧力が一時的に弱まったからです。
百済に続いて高句麗が滅び、約300年続いた朝鮮半島の三国時代が終わりました。勝ち残ったのは、唐と組んだ新羅でしたね。その新羅が、旧百済・高句麗の領土をめぐって、唐と戦争を始めました。このごたごたの余波で、日本に対する唐の圧力が劇的に弱まりました。
これを機に、不満を溜めこんだ「アンチ唐」が反撃に出たのが、672年の壬申(じんしん)の乱だったと捉えることもできます。この乱で、天智天皇の子の大友皇子は敗れ、天智天皇の弟が天武天皇として即位します。
では、天武天皇の下で、日本の外交政策は変わったのか。
遣唐使が参考になると思います。遣唐使の派遣は、今の日本の首相や閣僚が米国のトランプ大統領に会いに行くようなものです。複雑な国際情勢を読み解き、どのタイミングで、誰が行くのがいいか、考えに考え抜いて切る外交カードです。
白村江の戦いの直後は、敗戦処理があったのでしょう。665年、667年、669年と、短期間に3回、遣唐使を派遣しています。しかし、その後は702年まで、33年もブランクがあります。
672年に壬申の乱で「アンチ唐」派が勝利した後、天武天皇と、その次に即位した持統天皇が、唐と距離を置いていたことが読み取れます。ちなみに、この時期、唐では女帝の武則天(ぶそくてん)が権力を得ていました。
しかし、天武天皇も持統天皇も、国内では、唐にならった中央集権国家の構築を目指しました。「アンチ唐」に担がれたといっても、自分自身がトップに立ってみると、「今の日本に唐に対抗する力はない」と思い知らされたのでしょう。
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