「唐のポチ」か、それとも「アンチ」か。白村江の戦いから続く、日本の"大国への追従"と"一時的反抗"のループ

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

乙巳の変から18年後の663年、日本軍は唐・新羅連合軍と朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で戦い、完敗します。20世紀のアジア・太平洋戦争の敗北に匹敵する衝撃でした。

白村江の戦いで戦った唐も、アジア・太平洋戦争で戦った米国と同じように、世界屈指の強国でした。なぜ、こんな無謀な戦争に追いこまれたのでしょう。

その前に、高句麗と百済が同盟を結ぶという、ヒトラーとスターリンが手を組んだ独ソ不可侵条約のような大事件がありましたね。挟まれる格好になった新羅は、中国の唐に助けを求めました。

日本は昔から百済と関係が深く、傭兵を出しては、その見返りに技術供与を受けるといったことをしていました。その百済が、唐と対立したのです。百済を助けて、唐と戦うべきか。いやいや、それはさすがに無謀だから、唐につくべきか。百家争鳴の議論が巻き起こります。

そうこうするうち、660年、新羅と組んだ唐の軍によって、百済は都を占領され、滅ぼされてしまいます。これを機に、日本はとうとう「百済を助ける」と腹を決めました。海を渡った日本の百済支援軍は約4万2000人。百済遺民を合わせると5万人に上ったといいますが、兵士の数でも装備、軍略でも勝った唐・新羅軍に完膚なきまでに負かされたのでした。

敗北の翌年には、郭務悰(かくむそう)という進駐軍のマッカーサーのような人が唐から送られてきて、日本はパニック状態に陥ります。

「アンチ唐」から「唐のポチ」に転向した天智天皇

白村江の敗北後、中大兄皇子が天智天皇として即位します。もともと、「唐のポチ」か「アンチ唐」かといえば、中大兄皇子は「アンチ唐」でした。例えば、孝徳天皇は唐にべったりで、唐にならって中央集権化を目指しましたが、そんな孝徳天皇と対立していたふしがあります。

また、唐に対抗して百済支援の旗を振り、白村江の戦いに打って出たのは、皇太子でありながらも政治の実権を握っていた中大兄皇子です。

しかし、いざ即位してみると、百済に続いて高句麗も唐・新羅軍に滅ぼされて、天智天皇の目には「唐のポチ」にしか見えない新羅しか、朝鮮半島には残っていません。

次ページ大国の力を認めさせられ、大国のポチとなっていく
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事