「唐のポチ」か、それとも「アンチ」か。白村江の戦いから続く、日本の"大国への追従"と"一時的反抗"のループ
乙巳の変(大化の改新)について、中臣鎌足と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺した、と覚えている方もいるでしょう。しかし、首謀者は、この事件の直後に孝徳天皇として即位した軽皇子(かるのおうじ)であるという説も有力です。
ともあれ、クーデタを受けて“組閣”された、孝徳天皇の“閣僚名簿”を見ると、中臣鎌足や中大兄皇子、そして数十年の留学から帰ってきた遣隋使のメンバーと並んで、蘇我石川麻呂がいます。蘇我入鹿は暗殺されたのに、蘇我氏が“閣僚入り”したとは、どういうことでしょう。
蘇我入鹿は、蘇我氏直系で、蘇我蝦夷(えみし)の子どもです。一方、蘇我石川麻呂は、蝦夷の弟の子どもです。ということは恐らく、クーデタで失脚したのは蘇我氏直系であり、蘇我氏のなかで別の家系に権力が移ったということではないでしょうか。この後も蘇我氏は、天皇の生母を一族から出し、「政治とX染色体(女親)」を握ります。
乙巳の変とは、穏健派による剛腕の排除
乙巳の変(大化の改新)の後、孝徳天皇は「改新の詔(みことのり)」を出し、中央集権化を目指しました。おそらく、蘇我氏が長年にわたり準備していた計画を横取りしたのでしょう。
公地公民制を敷き、私有地を廃したと、かつて学校では教えられていましたが、実際には、王族や豪族、貴族による私有地の所有と経営は続きました。
さて、この大事件をどう解釈すべきでしょうか。乙巳の変が、朝鮮諸国での政変と同じように、唐という大帝国の台頭に刺激された内輪もめであることは間違いないと思います。
「唐のポチ」になるのか、「アンチ唐」か。いずれにせよ、唐に対抗するには国内を固めなくてはならない。そんなとき、天皇をいわば傀儡(かいらい)として自らに権力を集中させようとしたのが、蘇我入鹿だったのでしょう。
何しろ入鹿は、父の蝦夷がたしなめるほど直情的で、しかも有能だったようです。それに対して、天皇を中心に権力をまとめようとする穏健派の人たちもいて、剛腕の入鹿を排除した。そんな物語であった気がします。



















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