「唐のポチ」か、それとも「アンチ」か。白村江の戦いから続く、日本の"大国への追従"と"一時的反抗"のループ

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藤原京跡 奈良県橿原市
7世紀、「唐のポチ」と「アンチ唐」の間で揺れ動く日本の姿を、近現代史と重ねながら読み解きます(写真:papa88/PIXTA)
7世紀、東アジアは大帝国・唐の出現によって激動の渦中にありました。朝鮮半島の政変は、海を越え日本へも飛び火します。当時の日本が直面したのは、超大国に従う「唐のポチ」か、それとも独自の道を貫く「アンチ唐」かという究極の選択でした。
本稿では、『一気読み日本史』より一部抜粋のうえ、乙巳の変から白村江の戦い、そして壬申の乱へと続く一連の歴史を、この「国際情勢の対立図式」から読み解きます。なぜ蘇我入鹿は殺されねばならなかったのか。なぜ日本は勝機のない無謀な戦争へ突き進んだのか。そこには、現代の親米・反米の葛藤にも通じる、生存をかけたリーダーたちの苦悩と転向のドラマがありました。

「唐のポチになるか、ならないか問題」が勃発

中国の唐は大帝国となり、周辺諸国がざわつきます。唐にべったり従うのが得なのか、いやいや唐がなんぼのものやと対抗すべきか。「唐のポチ」派と「アンチ唐」派に分かれて、今の親米・反米のような図式です。

朝鮮の高句麗では、独立急進派の将軍が、国王や穏健派の貴族たちを殺してクーデタを起こします。すると、唐が高句麗に進軍します。一方、百済では、国王が権力を集中させようとして内輪もめが起こり、王子が日本に逃げてきました。

そんなすったもんだの末に、なんと、高句麗と百済が同盟を結びます。一緒になって唐や新羅と戦うというのです。犬猿の仲だったヒトラーとスターリンが手を結んだ独ソ不可侵条約締結のごとき衝撃です。焦った新羅が、唐に助けを求めます。

不穏な国際情勢が飛び火したのか、日本でも宮廷を揺るがすクーデタが起こります。645年の乙巳の変です。かつては「大化の改新」と呼ばれていた大事件です。

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